・・・ 遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでしょう。今まで明るかった二階の窓は、急にまっ暗になってしまいました。と同時に不思議な香の匂が、町の敷石にも滲みる程、どこからか静に漂って来ました。 四 その時あの印・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・新学期の講義の始まるのにも、もうあまり時間はない。そう思うと、いくら都踊りや保津川下りに未練があっても、便々と東山を眺めて、日を暮しているのは、気が咎める。本間さんはとうとう思い切って、雨が降るのに荷拵えが出来ると、俵屋の玄関から俥を駆って・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・フレンチは心臓の鼓動が止まるような心持になって、今こそある事件が始まるのだと燃えるようにそれを待っているのである。 罪人は気を取り直した様子で、広間に這入って来た。一刹那の間、一種の、何物をか期待し、何物をか捜索するような目なざしをして・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 僕が食膳に向うと、子供はそばへ来て、つッ立ったまま、姉の方が、「学校は、もう、来月から始まるのよ」と言う。吉弥を今月中にという事件が忘れられない。弟の方はまた、「お父さん、いちじくを取っておくれ」と言う。 いちじくと言われ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・もう明日から、僕のほうの学校が始まるから。君も晩に東京へ帰るんだろう。ほんとうに来年の夏休みには、また君もきたまえ。僕もきっとくるから、そして海の底の都には、こんな真珠や、紫水晶や、さんごや、めのうなどが、ごろごろころがっていて、建物なんか・・・ 小川未明 「海の少年」
・・・当日いよいよ手入れが始まると、直ちに「空襲警報」が飛ぶというわけだ。 右の六月十九日の検挙は、曾根崎署だけでなく、府下一斉に行われ、翌日もまたくりかえされたのだが、梅田でもやはり「警報」が出た。しかし、さすがに逃げおくれた連中がいて、押・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・嫁が来た日から病に取り憑かれたのだというその意味は、登勢の胸にも冷たく落ち、この日からありきたりの嫁苛めは始まるのだと咄嗟に登勢は諦めたが、しかし苛められるわけはしいて判ろうとはしなかった。 けれども、寺田屋には、御寮はん、笑うてはる場・・・ 織田作之助 「螢」
・・・とそれは始まる。彼は釈迦が法華経を説いたとき、「十方の諸仏菩薩集まりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とを並べたるが如くなりし時」その会中にあって、法華経の行者を守護すべきを誓言したる八幡大菩薩は、いま日蓮の難を救うべき義務があるに、・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・出兵が始まると同時に、アメリカは、汽船に二杯、偽札を浦潮へ積みこんできた。それを見たという者があった。「何で化の皮を引きむいてやらんのだ!」 兵士達は、偽札を撒きちらされても、強者には何一ツ抗議さえよくしない日本当局の無気力を憤った・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・又、始まると、スッと暗くなる。そして、電燈は、一と晩に、何回となく息をするのだった。 自動車は、毎日々々、走って来て、走り去った。雨が降っても、風が吹いても、休み日でも。 藁草履を不用にする地下足袋や、流行のパラソルや、大正琴や、水・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
出典:青空文庫