・・・「またいやだいやだを始めたぜ。あの人も相変らずよく来てるじゃアないか。あんまりわれわれに負けない方だ。迷わせておいて、今さら厭だとも言えまい。うまい言の一語も言ッて、ちッたあ可愛がッてやるのも功徳になるぜ」「止しておくんなさいよ。一・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・嫁の身を以て見れば舅姑は夫の父母にして自分の父母に非ざるが故に、即ち其ありのまゝに任せ、之を家の長老尊属として丁寧に事うるは固より当然なれども、実父母同様に親愛の情ある可らざるは是亦当然のことゝして、初めより相互に余計の事を求めず、自然の成・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ だから、早く云って見れば、文学と接触して摩れ摩れになって来るけれども、それが始めは文学に入らないで、先ず社会主義に入って来た。つまり文学趣味に激成されて社会主義になったのだ。で、社会主義ということは、実社会に対する態度をいうのだが、同・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・主人ピエエルが現代に始めて出来た精神的貴族社会の一員であると云うことは、この周囲を見て察せられる。あるいは精神的富豪社会と云った方が当たっているかも知れない。それはどんな社会だと云うと、国家枢要の地位を占めた官吏の懐抱している思想と同じよう・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・物懐しげに人の心を動かす響なり。初めは遠く、次第に近く、終にはその音暖かに充ち渡りて、壁隣の部屋より聞ゆる如音楽だな。何だか不思議に心に沁み入るような調べだ。あの男が下らぬ事を饒舌ったので、己まで気が狂ったのでもあるまい。人の手で弾くヴァイ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
余の初め歌を論ずる、ある人余に勧めて俊頼集、文雄集、曙覧集を見よという。それかくいうは三家の集が尋常歌集に異なるところあるをもってなり。まず源俊頼の『散木弃歌集』を見て失望す。いくらかの珍しき語を用いたるほかに何の珍しきこ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 童子は初めからお了いまでにこにこ笑っておられました。須利耶さまもお笑いになりみんなを赦して童子を連れて其処をはなれなさいました。 そして浅黄の瑪瑙の、しずかな夕もやの中でいわれました。(よくお前はさっき泣その時童子はお父さまに・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 始めての経験である間借りの生活に興味を覚えつつ、陽子は部屋を居心地よく調えた。南向の硝子窓に向って机、椅子、右手の襖際に木箱を横にした上へ布をかけこれは茶箪笥の役に立てる。電燈に使い馴れた覆いをかけると、狭い室内は他人の家の一部と思え・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 正月の初めにかれは死んだ。そして最後の苦悩の譫語にも自分の無罪を弁解して、繰り返した。『糸の切れっ端――糸の切れっ端――ごらんくだされここにあります、あなた。』 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
木村は官吏である。 ある日いつもの通りに、午前六時に目を醒ました。夏の初めである。もう外は明るくなっているが、女中が遠慮してこの間だけは雨戸を開けずに置く。蚊の外に小さく燃えているランプの光で、独寝の閨が寂しく見えている。 器・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫