・・・ 問 君はその詩人の姓名を知れりや? 答 予は不幸にも忘れたり。ただ彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。 問 その詩は如何? 答「古池や蛙飛びこむ水の音」。 問 君はその詩を佳作なりとなすや? 答 予は必ず・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。 当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・その五年前、六月六日の夜――名古屋の客は――註しておくが、その晩以来、顔馴染にもなり、音信もするけれども、その姓名だけは……とお町が堅く言わないのだそうであるから、ただ名古屋の客として。……あとを続けよう。「――みんな、いい女らしい・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・岡村はそういって、宿屋の帳附けが旅客の姓名を宿帳へ記入し、跡でお愛想に少許り世間話をして立去るような調子に去って終った。 予は彼が後姿を見送って、彼が人間としての変化を今更の如くに気づいた。若い時代の情熱などいうもの今の彼には全く無いの・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・連載物など、前に掲載した分を読み返すか、主要人物の姓名の控えを取って置けば間違いはないのに、それをしないものだから、平気で人名を変えたりしている。それに驚くべきことだが、字引を引いたことがないという。第一字引というものを持っていない。引くの・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・道子の姓名は田中道子であった。それが田村道子となっているのは、たぶん新聞の誤植であろうと、道子は一応考えたが、しかしひょっとして同じ大阪から受験した女の人の中に自分とよく似た名の田村道子という人がいるのかも知れない、そうだとすれば大変と思っ・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・ その意味では、その目撃者はかなり重要な人物だと、云ってもよいから、まずその姓名を明らかにして置こう。 小沢十吉……二十九歳。 その夜、小沢は土砂降りの雨にびっしょり濡れながら、外語学校の前の焼跡の道を東へ真直ぐ、細工谷町の方へ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ この一物は姓名も原籍も不明というので、例のとおり仮埋葬の処置を受けた。これが文公の最後であった。 実に人夫が言ったとおり、文公はどうにもこうにもやりきれなくって倒れたのである。・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・女姓名だけに金貸でも為そうに見える。一度は引返えして手紙で言おうかとも思ったが、何しろ一大事と、自分は思切って格子戸を潜った。 五月十三日 勝手の間に通ってみると、母は長火鉢の向うに坐っていて、可怕い顔して自分を迎えた。鉄瓶には徳利・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・『彼人とはだれのことか、』自分はここにその姓名を明かしたくない、単に『かれ』と呼ぼう。 かれは一個の謎である。またかれは一個の『悲惨』である。時代が人物を生み、人物が時代を作るという言葉があるが、かれは明治の時代を作るために幾分の力・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
出典:青空文庫