・・・御互いに開化と云う言葉を使っておって、日に何遍も繰返しているけれども、はたして開化とはどんなものだと煎じつめて聞き糺されて見ると、今まで互に了解し得たとばかり考えていた言葉の意味が存外喰違っていたりあるいはもってのほかに漠然と曖昧であったり・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・高い声でもない、低い声でもない、夜が更けているので存外反響が烈しい。「昨日生れて今日死ぬ奴もあるし」と一人が云うと「寿命だよ、全く寿命だから仕方がない」と一人が答える。二人の黒い影がまた余の傍を掠めて見る間に闇の中へもぐり込む。棺の後を・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・それでも点数がよかったので、人は存外信用してくれた。自分も世間へ対しては多少得意であった。ただ自分が自分に対すると甚だ気の毒であった。そのうち愚図々々しているうちに、この己れに対する気の毒が凝結し始めて、体のいい往生となった。わるく云えば立・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・と、吉里の声は存外沈着いていた。 平田は驚くほど蒼白た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻ッて上草履を持ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・人間世界は存外に広くして存外に俗なるものなり。文明の頂上と称する国々に於てもなおかつ然り。まして日本の如き、その文明の実価はともかくも、西洋流の文明についてはすべて不案内なるこの人民に向い、高尚なる学校教場の知見を丸出しにして実地の用に適せ・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・いかんとなれば、当初、余が著述は、かつて身に経験あるに非ず、ただ西洋の事をたやすく世人に知らせんものをと思う一心よりこれを出版して、存外によく売れたるにつき、これは面白しとて、また出版すれば、また売れ、ついに図らざる利益を得たることにして、・・・ 福沢諭吉 「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」
・・・田舎へ行脚に出掛けた時なども、普通の旅籠の外に酒一本も飲まぬから金はいらぬはずであるが、時々路傍の茶店に休んで、梨や柿をくうのが僻であるから、存外に金を遣うような事になるのであった。病気になって全く床を離れぬようになってからは外に楽みがない・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ですから理想などというものは、実現されるまでのその間が楽しいものであって、充されてしまったら存外つまらぬものかもしれません。けれどもどんな人にも慾望や理想はいくらかずつは持っていましょうし、またそこに人生の面白味があるのではないでしょうか。・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・倅はそう云う人は危険思想家だと云っているが、危険思想家を嗅ぎ出すことに骨を折っている人も、こっちでは存外そこまでは気が附いていないらしい。実際こっちでは、治安妨害とか、風俗壊乱とか云う名目の下に、そんな人を羅致した実例を見たことがない。しか・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・本能は存外醜悪でない。 箸のすばしこい本能の人は娘の親ではない。親でないのに、たまさか箸の運動に娘が成功しても叱りはしない。 人は猿よりも進化している。 四本の箸は、すばしこくなっている男の手と、すばしこくなろうとしている娘の手・・・ 森鴎外 「牛鍋」
出典:青空文庫