・・・ 四 父と子と 大正七年十月のある夜、中村少将、――当時の軍参謀中村少佐は、西洋風の応接室に、火のついたハヴァナを啣えながら、ぼんやり安楽椅子によりかかっていた。 二十年余りの閑日月は、少将を愛すべき老人にしてい・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・椅子は蜥蜴の皮に近い、青いマロック皮の安楽椅子だった。僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、或短篇を続けようとした。けれどもインクをつけたペンはいつまでたっても動かなかった。のみならずやっと動いたと思うと、同じ言葉ばかり書きつづけていた。All r・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ということを言いたげに呉は、安楽椅子に、ポンと落ちこんでチューインガムをしがんでいる深沢をチラと見て、にたにたと笑った。「そうだ。何もしない者、何も知らないそうだ」 田川は唸く声の間から、とぎれとぎれに繰りかえした。弾丸のあたった腰・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・そこだけは、西洋風にテーブルを置いて、安楽椅子に腰掛けるようにしてある。大塚さんはその一つに腰掛けて見た。 可傷しい記憶の残っているのも、その部屋だ。若く美しい妻を置いて、独りで寂しく旅ばかりするように成ったということや、あれ程親戚友人・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・土用の日ざしが狭い土堤いっぱいに涼しい松の影をこしらえて飽き足らず、下の蕃藷畑に這いかかろうとする処に大きな丸い捨石があって、熊さんのためには好い安楽椅子になっている。もう五十を越えているらしい。一体に逞しい骨骼で顔はいつも銅のように光って・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・向うには、髪もひげもまるで灰いろの、肥ったふくろうのようなおじいさんが、安楽椅子にぐったり腰かけて、扇風機にぶうぶう吹かれながら、「給仕をやっていながら、一通りのホテルの作法も知らんのか。」と頬をふくらして給仕を叱りつけていました。・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ ひと仕事すんだターニャが日本女の室で、かけてのまだない安楽椅子に腰かけ、青リンゴをうまそうにかじっている。 ――くたびれた? ――すこうし。 二つめのリンゴにかぶりつきながらターニャはいかにもたのしそうに、たのしさから足で・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・入った右手の安楽椅子のところに紀 ラクダ毛布を引かついで眠をぶっている。紫矢がすり 赤い友禅のドテラ引かぶって櫛のハの通っていない髪 青い半ぐつした。室中に何とも云えず重い懶い雰囲気がこめている。その同じ娘が 人中では顔も小・・・ 宮本百合子 「情景(秋)」
・・・彼はここまで運ばれて来て、クッションの上に両足をのばして安楽椅子にかける。私は、その直ぐそばのもう一つの安楽椅子にかける。そうして六時までもそうしている。」マリアは全部白ではあるが、布地とつやの様々の変化を美しくあしらった部屋着を着ている。・・・ 宮本百合子 「マリア・バシュキルツェフの日記」
・・・父は、渋い赤がちの壁紙を張った食堂の隅の安楽椅子にくつろいで、横顔をスタンドの明りに照らし出されていたが、「なあんだ、泊って行くんじゃなかったのかい」と如何にも不本意げに云った。「帰ったって誰もいやしないじゃないか。泊っといで!・・・ 宮本百合子 「わが父」
出典:青空文庫