・・・卯の毛で胡粉を刷いたような女の膚の、どこか、頤の下あたりに、黒いあざはなかったか、うつむいた島田髷の影のように―― おかしな事は、その時摘んで来たごんごんごまは、いつどうしたか定かには覚えないのに、秋雨の草に生えて、塀を伝っていたのであ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・この人の顔さえ定かならぬ薄暗い室に端座してベロンベロンと秘蔵の琵琶を掻鳴らす時の椿岳会心の微笑を想像せよ。恐らく今日の切迫した時代では到底思い泛べる事の出来ない畸人伝中の最も興味ある一節であろう。 椿岳の女道楽もまた畸行の一つに数うべき・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・――暗のなかに仄白く浮かんだ家の額は、そうした彼の視野のなかで、消えてゆき現われて来、喬は心の裡に定かならぬ想念のまた過ぎてゆくのを感じた。蟋蟀が鳴いていた。そのあたりから――と思われた――微かな植物の朽ちてゆく匂いが漂って来た。「君の・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・それはごくほのかな気持ではあったが、風に吹かれている草などを見つめているうちに、いつか自分の裡にもちょうどその草の葉のように揺れているもののあるのを感じる。それは定かなものではなかった。かすかな気配ではあったが、しかし不思議にも秋風に吹かれ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・そのもの案じがおなる蒼き色、この夜は頬のあたりすこし赤らみておりおりいずこともなくみつむるまなざし、霧に包まれしある物を定かに視んと願うがごとし。 霧のうちには一人の翁立ちたり。 教師は筆おきて読みかえしぬ。読みかえして目を閉じたり・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・横顔なれば定かに見分け難きも十八、九の少女なるべし、美しき腕は臂を現わし、心をこめて洗うは皿の類なり。 少女は青年に気づかざるように、ひたすらその洗う器を見て何事をも打ち忘れたらんごとし。幾個かの皿すでに洗いおわりて傍らに重ね、今しも洗・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・女の人がちょっと出て行って、今度帰って坐った時には、向き合いになってももう面輪が定かに見えない。 女の人は、立って押入から竹洋灯を取りだして、油を振ってみて、袂から紙を出して心を摘む。下へ置いた笠に何か書いた紙切れが喰っついている。読ん・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・王を二尺左に離れて、床几の上に、纎き指を組み合せて、膝より下は長き裳にかくれて履のありかさえ定かならず。 よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえ躍るを。話しの種の思う坪に生えたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアは・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・盾の上に動く物の数多きだけ、音の数も多く、又その動くものの定かに見えぬ如く、出る音も微かであららかには鳴らぬのである。……ウィリアムは手に下げたるクララの金毛を三たび盾に向って振りながら「盾! 最後の望は幻影の盾にある」と叫んだ。 戦は・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・久しぶりに青天を見て、やれ嬉しやと思うまもなく、目がくらんで物の色さえ定かには眸中に写らぬ先に、白き斧の刃がひらりと三尺の空を切る。流れる血は生きているうちからすでに冷めたかったであろう。烏が一疋下りている。翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫