・・・だから、鼻の穴が微妙にムズ痒くなって、今くさめが出るのだなと分ると、それを実に大切にするんだ。 ――俺もしばらくして、せきとくさめに自分のスタイルを持つことに成功した。 オン、ア、ラ、ハ、シャ、ナウ 高い窓から入・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・内儀「何が困るたって、あなた此様に貧乏になりきりまして、実に世間体も恥かしい事で、斯様な裏長屋へ入って、あなたは平気でいらっしゃるけれども、明日食べますお米を買って炊くことが出来ませんよ」七「出来ないって、何うも仕方がない、お米が天・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・それがこの山の上の港へ漂い着いて、世離れた測候所の技手をして、雲の形を眺めて暮す身になろうなどとは、実に自分ながら思いもよらない変遷なのである。 こう思い耽って居ると、誰か表の方で呼ぶような声がする。何の気なしに自分は出て見た。 旅・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・私に取ってはそれが神の力でも信仰の力でもなくして、実に自分の知識の力である。もしみずから僣して聡明ということを許されるなら、聡明なからである。仮に現在普通の道徳を私が何らかの点で踏み破るとする。私にはその後のことが気づかわれてならない。それ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・此人の文章は実に美しく、云い表わしたい十のことは、三つの言葉でさとらせるように書きます。此物語の中にも沢山そう云う処がありますが、判り難そうな場処は言葉を足して、はっきり訳しました。此をお読みになる時は、熱い印度の、色の黒い瘠せぎすな人達が・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・文学鑑賞は、本格的であった。実によく読む。洋の東西を問わない。ちから余って自分でも何やら、こっそり書いている。それは本箱の右の引き出しに隠して在る。逝去二年後に発表のこと、と書き認められた紙片が、その蓄積された作品の上に、きちんと載せられて・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・それを行って見ずに、ぐずぐずしていて、朝夕お極まりに涌き上がって来る、悲しい霧を見ているのである。実に退屈である。ドリスがいかに巧みに機嫌を取ってくれても、歓楽の天地の閾の外に立って、中に這入る事の出来ない恨を霽らすには足らない。詰まらない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・春の日が室の中までさし込むので、実に暖かい、気持ちが好い。机の上には二、三の雑誌、硯箱は能代塗りの黄いろい木地の木目が出ているもの、そしてそこに社の原稿紙らしい紙が春風に吹かれている。 この主人公は名を杉田古城といって言うまでもなく文学・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・子供等は皆学校へ行っているし、他の家族もどこで何をしているのか少しの音もしなかった。実に静かな穏やかな朝であった。 私は無我無心でぼんやりしていた。ただ身体中の毛穴から暖かい日光を吸い込んで、それがこのしなびた肉体の中に滲み込んで行くよ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・にも関所があり、税関があり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限があり、法度でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆謀叛人であった時代を想像して御覧なさい。実にたまったものではないではないか。幸に・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫