・・・「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」 と、その男は附加して言った。 この「朝飯も食べません」が自分の心を動かした。顔をあげて拝むような目付をしたその男の有様は、と見ると、体躯の割に頭の大きな、下顎の円く長い、何となく人・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ことに困るのは、知識で納得の行く自己道徳というものが、実はどうしてもまだ崇高荘厳というような仰ぎ見られる感情を私の心に催起しない。陳い習慣の抜殻かも知れないが、普通道徳を盲目的に追うている間は、時としてこれに似たような感じの伴うこともあった・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・それに己はまだ一マルク二十ペンニヒここに持っている。実は二マルク四十ペンニヒなくてはならないのだ。それさえあれば己はあっちのリングの方にいる女きょうだいの処まで汽車で行かれるのだが。」 婆あさんは、目を小さくして老人の顔を見ていたが、一・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それは実は、まださかんにやけている火事の烟のあつまりだったのです。 四 しかし、震災の突発について政府以下、すべての官民がさしあたり一ばんこまったのは、無線電信をはじめ、すべての通信機関がすっかり破かいされてしま・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・それに気が付いたのは、実はたった今よ。(劇なぜ黙っているの。さっきにからわたしにばかり饒舌らしていて、一言も言ってくれないのね。そんなにして坐っていて、わたしの顔を見ているその目付で、わたしの考えの糸を、丁度繭から絹糸を引き・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
私は遊ぶ事が何よりも好きなので、家で仕事をしていながらも、友あり遠方より来るのをいつもひそかに心待ちにしている状態で、玄関が、がらっとあくと眉をひそめ、口をゆがめて、けれども実は胸をおどらせ、書きかけの原稿用紙をさっそく取・・・ 太宰治 「朝」
・・・僕がいないと、銀行で差支えるのですが、どうにかして貰えないことはなかろうと思います。」実はこれ程容易な事はない。自分がいなくても好いことは、自分が一番好く知っているのである。「宜しい。それじゃあ、明日邸へ来てくれ給え。何もかも話して聞せ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・それどころか、かれらが人間から軽侮される生活そのものが、実は人間にとって意外な祝福をもたらす所以になるのである。 鳥や鼠や猫の死骸が、道ばたや縁の下にころがっていると、またたく間に蛆が繁殖して腐肉の最後の一片まできれいにしゃぶりつくして・・・ 寺田寅彦 「蛆の効用」
・・・ 私も為方ないから、へえ然ようでござえんすか、実は然云うお達があったもんですから出ましたような訳でと、然う云うとね、下役の方が、十二枚づつ綴じた忰の成績書をお目にかけて、何かお話をなすっていましたっけがね、それには一等一等と云うのが、何・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・しかし事実は事実として受取らなければならない。その夜を限りその姿形が、生残った人たちの目から消え去ったまま、一年あまりの月日が過ぎても、二度と現れて来ないとなれば、その人たちの最早やこの世にいないことだけは確だと思わなければなるまい。 ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫