・・・家は馬道辺で二階を人に貸して家賃の足しにしていた。おかみさんはまだ婆さんというほどではなく、案外垢抜けのした小柄の女で、上野広小路にあった映画館の案内人をしているとの事であった。爺さんはいつでも手拭を後鉢巻に結んでいるので、禿頭か白髪頭か、・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・家ハ家賃廉低ノ地ヲ択ブガ故ニ大抵郡部新開ノ巷ニ在リ。別ニ給料ヲ受ケズ、唯酔客ノ投ズル纏頭ヲ俟ツノミ。然レドモ其ノ金額日々拾円ヲ下ラザルコト往々ニシテ有リ。之ヲ以テ或ハ老親ヲ養フモノアリ或ハ病夫ノタメニ薬ヲ買フモノアリ。或ハ弟妹ニ学資ヲ与フル・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・夫人がこの家を撰んだのは大に気に入ったものかほかに相当なのがなくてやむをえなんだのか、いずれにもせよこの煙突のごとく四角な家は年に三百五十円の家賃をもってこの新世帯の夫婦を迎えたのである。カーライルはこのクロムウェルのごときフレデリック大王・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の属官なるものだあね。主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。ただ下宿の時分より面倒が殖えるばかりだ」と深くも考えずに浮気の不平だけ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・そこでもって家賃が滞る――倫敦の家賃は高い――借金ができる、寄宿生の中に熱病が流行る。一人退校する、二人退校する、しまいに閉校する。……運命が逆まに回転するとこう行くものだ。可憐なる彼ら――可憐は取消そう二人とも可憐という柄ではない――エー・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・今いる家は、町の家作持ちの好意で家賃なしであった。村にも、彼女より立派に縫物の出来る女は、数人いた。植村婆さんは、若い其等の縫いてがいやがる子供物の木綿の縫いなおしだの、野良着だのを分けて貰って生計を立てて来たのであった。沢や婆のいるうちは・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・中には随分曖昧な、家賃一ヵ年分を報酬として請求するとか、三月分を強請されて、家はどうにか見付かったが、その片をつけるに困ったとかいう噂が彼方此方にあった。私共も、自分で探していたのでは到底、何時になったら見付かるか、見当もつかないような有様・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・金がちっとも無かった。家賃さえなかった。エンゲルスが骨を折って友人の間から金を集めた。生れて半年ほどの赤児をつれて、マルクス夫妻はベルギーの首府ブルッセルに移った。一八四五年一月のことである。 四「書物の海」からぬけ出・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・爺さんは縁端にしゃがんで何か言っていたが、いつか家の話が家賃の話になり、家賃の話が身の上話になった。この薄井という爺さんは夫婦で西隣に住んでいる。遅く出来た息子が豊津の中学に入れてある。この家を人に貸して、暮しを立てて倅の学資を出さねばなら・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・ 年の暮に鍛冶町の家主が急に家賃を上げたので、私は京町へ引き越した。いとぐるまの音のする家から、太鼓の音のする家に移ったのである。京町は小倉の遊女町の裏通になっていて、絶えず三味線と太鼓が聞えていた。この家へもF君は度々話しに来た。・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫