・・・こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い幻も、――いや、しかし怪しい何物かは、眩しい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・先生にとって英語を教えると云う事は、空気を呼吸すると云う事と共に、寸刻といえども止める事は出来ない。もし強いて止めさせれば、丁度水分を失った植物か何かのように、先生の旺盛な活力も即座に萎微してしまうのであろう。だから先生は夜毎に英語を教える・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。けれども、その時は、ちがっていたのだ。断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ。ああ、あの人はそれを知らない。それを知らない。・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・その間にも私は、寸刻も早く看守が来て、――なぜ乱暴するか――と咎めるのを待った。が、誰も来なかった。 私はヘトヘトになって板壁を蹴っている時に、房と房との天井際の板壁の間に、嵌め込まれてある電球を遮るための板硝子が落ちて来た。私は左の足・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ 多くの人は、つのめだった世相につかれて生活のうちにせめて寸刻のやわらぎを求めています。あつい夏の朝、新聞をあければ、今日も明日もと、下山事件、三鷹事件、『アカハタ』への手入れとあつ苦しい、ごみっぽい記事はすべて共産党に結びつけて大げさ・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・しかし、閲兵する王女としての足どりは乱れず、倒れている女性を寸刻も早く救うために、どんな合図の身ぶりも示されていないのである。そのスナップには「写真班は、救急班の到着を待ちかねた」という意味のスクリプトがついている。 王女の生活の公式の・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・組合の政治教育、文化・文学教育も、政治教育はとくに活溌ではあったが、それとても自分のところの組合組織の確立、ストライキ、他の組合のストライキの応援と、職場の活動的な分子ほど、彼の二十四時間は寸刻のゆとりもなかった。この種の事情は産別宣伝部で・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・生きて寸刻も止まらぬ人気というものを私たちは一番痛切に感じている。〔一九四〇年十一月〕 宮本百合子 「このごろの人気」
・・・ 実際、所謂女仲間に入って見ますと、私などは、かなり出しゃ張りの方でも、その絶え間ない早口と、戯談と寸刻もじっとして居ない態度とは、神経を気の毒なほど疲らせてくれます。 女の人の寄宿舎などは、まるで、今海から上げた大漁の網そのままの・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 禰宜様宮田は、ほんとに体の骨が曲ってしまうほど耕しもし、血の出るような工面をして、たくさんの肥料もかけてみた。寸刻の緩みもなく、この上ない努力をしつづける彼の心に対しても、よくあるべきはずの結果は、時はずれの長雨でめちゃめちゃにされた・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫