・・・ 大波に漂う小舟は、宙天に揺上らるる時は、ただ波ばかり、白き黒き雲の一片をも見ず、奈落に揉落さるる時は、海底の巌の根なる藻の、紅き碧きをさえ見ると言います。 風の一息死ぬ、真空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流も、その屋根を圧して・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ 柳はほんのりと萌え、花はふっくりと莟んだ、昨日今日、緑、紅、霞の紫、春のまさに闌ならんとする気を籠めて、色の濃く、力の強いほど、五月雨か何ぞのような雨の灰汁に包まれては、景色も人も、神田川の小舟さえ、皆黒い中に、紅梅とも、緋桃とも言う・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 見ていると、銀色の小舟は、波打ちぎわにこいできました。入り陽が、赤い花弁に燃えついたように、旗の色がかがやいて、ちょうど風がなかったので、旗は、だらりと垂れていました。船の中で、合図をしているように思われました。彼は、がけをおりようか・・・ 小川未明 「希望」
・・・ ある日のこと、猟師たちが、幾そうかの小舟に乗って沖へ出ていきました。真っ青な北海の水色は、ちょうど藍を流したように、冷たくて、美しかったのであります。 磯辺には、岩にぶつかって波がみごとに砕けては、水銀の珠を飛ばすように、散ってい・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・山村水廓の民、河より海より小舟泛かべて城下に用を便ずるが佐伯近在の習慣なれば番匠川の河岸にはいつも渡船集いて乗るもの下りるもの、浦人は歌い山人はののしり、いと賑々しけれど今日は淋びしく、河面には漣たち灰色の雲の影落ちたり。大通いずれもさび、・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・徳二郎は堤をおり、橋の下につないである小舟のもやいを解いて、ひらりと乗ると、今まで静まりかえっていた水面がにわかに波紋を起こす。徳二郎は、「坊様早く早く!」と僕を促しながら櫓を立てた。 僕の飛び乗るが早いか、小舟は入り江のほうへと下・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・見ているうちに小舟が一艘、磯を離れたと思うと、舟から一発打ち出す銃音に、游いでいた者が見えなくなった。しばらくして小舟が磯に還った。『今のは太そうな奴だな、フン、うまいうまい。』叔父さん独語を言って上機嫌である。『徳さん、腹が減った・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 近づいて見ると、はたして一艘の小舟の水際より四五間も曳き上げてあるをその周囲を取り巻いて、ある者は舷に腰かけ、ある者は砂上にうずくまり、ある者は立ちなど、十人あまりの男女が集まっている、そのうちに一人の男が舷に倚って尺八を吹いているの・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・子供が学校が引けると小舟に乗りこんでやって行って、「マイラセ」という小籠に一っぱいか半ばい位いの鰯を貰って来るのだ。網元を「ムラギミ」と云って、そこの親爺の、嘉平と利吉という二人が、ガミ/\子供を叱りつけた。僕等は、子供の時から、その嘉平と・・・ 黒島伝治 「自伝」
・・・そよ風になびく旗、河岸や橋につながれた小舟、今日こそ聖ヨハネの祭日だという事が察せられます。 ところがそこには人の子一人おりません。二人はまず店に買い物に行って、そこでむすめは何か飲むつもりでしたが、店はみんなしまっていました。「マ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
出典:青空文庫