・・・武光山より右にあたりて山々連なり立てるが中に、三峰は少しく低く黒みて見ゆ。それより奥の方、甲斐境信濃境の高き嶺々重なり聳えて天の末をば限りたるは、雁坂十文字など名さえすさまじく呼ぶものなるべし。 進み進みて下影森を過ぎ上影森村というに至・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・磯九郎ばかりではありません、例に挙げたから申しますが、身の苦しさに棄児をした糠助なんぞでも、他の作者ならばそれだけを主題にしても一部を為すのであります。少しく小説の数をかけて読んだお方が、ちょっと瞑目して回想なさったらば、馬琴前後および近時・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・ 今や即ち其時である、是れ私の運命である、以下少しく私の運命観を語りたいと思う。 幸徳秋水 「死生」
・・・東京に住む俗な友人は、北京の人の諤々たる時事解説を神妙らしく拝聴しながら、少しく閉口していたのも事実であった。私は新聞に発表せられている事をそのとおりに信じ、それ以上の事は知ろうとも思わない極めて平凡な国民なのである。けれども、また大隅君に・・・ 太宰治 「佳日」
・・・は、高等学校時代からであったが、どうも日本酒はからくて臭くて、小さい盃でチビチビ飲むのにさえ大いなる難儀を覚え、キュラソオ、ペパミント、ポオトワインなどのグラスを気取った手つきで口もとへ持って行って、少しくなめるという種族の男で、そうして日・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・しかし今少しく規模を大きくして一村、一市街の幅員と同程度なる等温線の凹凸やその時間的変化となれば、既に世人の利害に直接間接の交渉を生ずるに至る事あり。積雲の集団がある時間内にある村の上を多く過ぐるか少なく過ぐるかは、時にはその村民にとりては・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・君の絵はある点で甚だ無頓着に自由に且つ呑気そうに見えると同時に、また非常に神経過敏にあるいは少しく病的と思われるほど気むずかしいところがある。これも同君の絵について感ずる矛盾の調和の一つであって絵の深みを増す所以であある。このような点はある・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・高地の下の人家の或処は立て込んだり、或処は少しくまばらになったりしているのは、一ツの町が村になったり再び町になったりすることを知らしているのである。初に見た時、やや遠く雲をついて高地の空に聳えていた無線電信の鉄柱が、わたくしの歩みを進めるに・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・丁度、西南戦争の後程もなく、世の中は、謀反人だの、刺客だの、強盗だのと、殺伐残忍の話ばかり、少しく門構の大きい地位ある人の屋敷や、土蔵の厳めしい商家の縁の下からは、夜陰に主人の寝息を伺って、いつ脅迫暗殺の白刄が畳を貫いて閃き出るか計られぬと・・・ 永井荷風 「狐」
「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯ある人が二たび三たび微吟して、あとは思案の体である。灯に写る床柱にもたれたる直き背の、この時少しく前にかがんで、両手に抱く膝頭に険しき山が出来る。佳句を得て佳句を続ぎ能わざるを恨みてか、・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫