・・・ 襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室は閉ったままで、ただほのかに見える散れ松葉のその模様が、懐しい百人一首の表紙に見えた。 泉鏡花 「縁結び」
・・・沢井様の草刈に頼まれて朝疾くからあちらへ上って働いておりますと、五百円のありかを卜うのだといって、仁右衛門爺さんが、八時頃に遣って来て、お金子が紛失したというお居室へ入って、それから御祈祷がはじまるということ、手を休めてお庭からその一室の方・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・脱走、足袋はだしのまま、雨中、追われつつ、一汁一菜、半畳の居室与えられ、犬馬の労、誓言して、巷の塵の底に沈むか、若しくは、とても金魚として短きいのち終らむと、ごろり寝ころび、いとせめて、油多き「ふ」を食い、鱗の輝き増したるを紙より薄き人の口・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・私は留守番をして珍しく静かな階下の居室で仕事をしていたが、いつもとはちがって鳴き立てる三毛の声が耳についた。食物をねだる時や、外から帰って来る主人を見かけてなくのとは少し様子がちがっていた。そしてなんとなく不安で落ち着き得ないといったような・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ 幾度となくおじぎをしては私を見上げる彼の悲しげな眼を見ていた私は、立って居室の用箪笥から小紙幣を一枚出して来て下女に渡した。下女は台所の方に呼んでそれをやった。 私が再びオルガンの前に腰を掛けると彼はまた縁側へ廻って来て幾度となく・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・それにもかかわらず自分は同氏の住み家やその居室を少なくとも一度は見たことがあるような錯覚を年来もちつづけて来た。そうしてそれがだんだんに固定し現実化してしまって今ではもう一つの体験の記憶とほとんど同格になってしまっている。どうしてそんなこと・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・書斎の軒の藤棚から居室の障子までは最短距離にしても五間はある。それで、地上三メートルの高さから水平に発射されたとして十メートルの距離において地上一メートルの点で障子に衝突したとすれば、空気の抵抗を除外しても、少なくも毎秒十メートル以上の初速・・・ 寺田寅彦 「藤の実」
・・・オリスは世のいわゆる高尚優美なる紳士にして伊太利亜、埃及等を旅行して古代の文明に対する造詣深く、古美術の話とさえいえば人に劣らぬ熱心家でありながら、平然として何の気にする処もなく、請負普請の醜劣俗悪な居室の中に住んでいる人があると慨嘆してい・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・平素は余りに単白で色彩の乏しきに苦しむ白木造りの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲と一致して日本の女の最も刺戟的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻の細帯にあらい浴衣の立膝して湯上りの薄化粧・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫