・・・ 然らば即ち敬愛は夫婦の徳にして、この徳義を修めてこれを今日の実際に施すの法如何と尋ぬるに、夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風を運らさざるべ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・前面忽ち見る海水盆の如く大島初島皆手の届くばかりに近く朝霧の晴間より一握りほどの小岩さえありありと見られにけり。 秋の海名も無き島のあらはるゝ これより一目散に熱海をさして走り下りるとて草鞋の緒ふッつと切れたり。 草鞋の・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・前には九州の青い山が手の届くほど近くにある。その山の緑が美しいと来たら、今まで兀山ばっかり見て居た目には、日本の山は緑青で塗ったのかと思われた。ここで検疫があるのでこの夜は碇泊した。その夜の話は皆上陸後の希望ばかりで、長く戦地に居た人は、早・・・ 正岡子規 「病」
・・・するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。「直れ。」先生が・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・こうさえしてしまえば、あとはむこうへ届こうが届くまいが、郵便屋の責任だ。」と先生はつぶやきました。 あっはっは。みなさん。とうとう九月六日になりました。夕方、紫紺染に熱心な人たちが、みんなで二十四人、内丸西洋軒に集まりました。 もう・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・ ――日本へこれが届くでしょうか? みんな。 それは分らない。 広いところへかかっている大きい大きい暦の25という黒い文字や、一分ずつ動く電気時計。床を歩く群集のたてる擦るようなスースーという音。日本女はそれ等をやきつくように心・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 着物だの飾り物に、ひどい愛着を持って居るお君は、見も知らない人々が、隅から隅まで隆とした装で居るのを見るとたまらなくうらやましくなって、例えそれが、正銘まがい無しの物でも、自分の手の届くところまで、引き下げたものにして考えて居なければ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 庄兵衛はかれこれ初老に手の届く年になっていて、もう女房に子供を四人生ませている。それに老母が生きているので、家は七人暮らしである。平生人には吝嗇と言われるほどの、倹約な生活をしていて、衣類は自分が役目のために着るもののほか、寝巻しかこ・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・雨を催している日の空気は、舟からこの海岸を手の届くように近く見せるのである。 我々は北国の関門に立っているのである。なぜというに、ここを越せばスカンジナヴィアの南の果である。そこから偉大な半島がノルウェエゲンの瀲や岩のある所まで延びてい・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・舟の周囲、船頭の棹の届く範囲だけでも何百あるかわからない。しかるにその花は、十間先も、一町先も、五町先も、同じように咲き続いている。その時の印象でいうと、蓮の花は無限に遠くまで続いていた。どの方角を向いてもそうであった。地上には、葉の上へぬ・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫