・・・炊事、縫物、借金取の断り、その他写本を得意先に届ける役目もした。若い見習弟子がひとりいたけれど、薄ぼんやりで役にもたたず、邪魔になるというより、むしろ哀れだった。 お君が上本町九丁目の軽部の下宿先へ写本を届けに行くと、二十八の軽部は・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 男が川の中へ落ちてしまったのを見届けると、豹吉は不気味な笑いを笑った。 しかし、さすがに顔色は青ざめていた。 ふとあたりを見廻した。 誰も見ていた者はない。午前六時だ。人影も殆んどなかった。 豹吉は固い姿勢で歩き・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・荷物を配達先へ届けると同時に産気づいて、運送屋や家の人が気を揉むうちに、安やすと仔牛は産まれた。親牛は長いこと、夕方まで休息していた。が、姑がそれを見た頃には、蓆を敷き、その上に仔牛を載せた荷車に、もう親牛はついていた。 行一は今日の美・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 一先拝借して自分の急場を救った上で、その中に母から取返すとも、自分で工夫して金を作るとも、何とでもして取った百円を再び革包に入れ、そのまま人知れず先方に届ける。 天の賜とは実にこの事と、無上によろこび、それから二百円を入れたままの革包・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ こう相川は書いて、それを車夫に持たせて会社へ届けることにした。「原さんで御座ましたか。すっかり私は御見それ申して了いましたよ」 と国訛りのある語調で言って、そこへ挨拶に出たのは相川の母親である。「どうも私の為に会社を御・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ 月の三十日までには約束のものを届ける。特製何部。並製何部。この印税一割二分。そのうち社預かり第五回配本の分まで三分。こうした報告が社の会計から、すでに私の手もとへ届くようになった。 私も実は、次郎と三郎とに等分に金を分けること・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・しかし必ずしもそれを食うのではなく、そのままに打ちすてておいてあるのを、玉が失敬して片をつける事もあるようだし、また人間のわれわれが糸で縛って交番へ届ける事もあった。生存に直接緊要な本能の表現が、猫の場合ですらもうすでに明白な分化を遂げて、・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・「西宮さんへ話して、平田さんへ届けるようにしておくんなさいよ」と、吉里は同じことを繰り返した。「吉里さん、どうしてそんな気になッたんだよ。そんなに薄情な人とは、私しゃ今まで知らなかッたよ。まさかに手拭紙にもされないからとは、あんまり・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・警察へ届けるよ。」「許して下さい。許して下さい。」「いいや、いかん。さあ払え。」「ないんですよ。許して下さい。そのかわりあなたのけらいになりますから。」「そうか。よかろう。それじゃお前はおれのけらいだぞ。」「へい。仕方あ・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ 次いで、マリーナ・イワーノヴナ、最後にジェルテルスキーの長い脚が、左右、左右、階段の上に隠れるのを見届けると、下の小さい娘は自分達の部屋へかけ込み、息を殺して、「お婆ちゃん、三人、異人さん」と報告した。 ・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫