・・・ 窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。大降りだな、――慎太郎はそう思いながら、早速寝間着を着換えにかかった。すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ声をかけた。「慎ちゃん。お早う。」「お早う、お母さんは?」「・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・仁右衛門の淋しい小屋からはそれでもやがて白い炊煙がかすかに漏れはじめた。屋根からともなく囲いからともなく湯気のように漏れた。 朝食をすますと夫婦は十年も前から住み馴れているように、平気な顔で畑に出かけて行った。二人は仕事の手配もきめずに・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・それで君、ニコライの会堂の屋根を冠った俳優が、何十億の看客を導いて花道から案内して行くんだ』『花道から看客を案内するのか?』『そうだ。其処が地球と違ってるね』『其処ばかりじゃない』『どうせ違ってるさ。それでね、僕も看客の一人・・・ 石川啄木 「火星の芝居」
・・・畔づたいに廻りながら、やがて端へ出て、横向に桃を見ると、その樹のあたりから路が坂に低くなる、両方は、飛々差覗く、小屋、藁屋を、屋根から埋むばかり底広がりに奥を蔽うて、見尽されない桜であった。 余りの思いがけなさに、渠は寂然たる春昼をただ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ヘイ、そのさきに寺がめいます、森の上からお堂の屋根がめいましょう。法華のお寺でございます。あっこはもう勝山でござります、ヘイ」「じいさん、どうだろう雨にはなるまいか」「ヘイ晴れるとえいけしきでござります、残念じゃなあ、お富士山がちょ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・どこか屋根の上に隠れて止まっていた一群の鳩が、驚いて飛び立って、たださえ暗い中庭を、一刹那の間一層暗くした。 聾になったように平気で、女はそれから一時間程の間、やはり二本の指を引金に掛けて引きながら射撃の稽古をした。一度打つたびに臭い煙・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・道も、屋根も、一面雪におおわれていました。寒い風が、つじに立っている街燈をかすめて、どこからか、枯れたささの葉の鳴る音などが耳にはいりました。 どちらへ曲がったらいいかわからなかったので、しばらくたたずんで、きかかった人に、教会堂の在所・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・「お前さんにはまだ屋根代が貰ってなかったね。屋根代が六銭。それから宿帳を記けておくれな。」と肩先を揺る。 私は睡ったふりもしていられぬので、余儀なく返事をして顔を挙げた。そして上さんのさしだす宿帳と矢立とを取って、まずそれを記してか・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 坂を降りて北へ折れると、市場で、日覆を屋根の下にたぐり寄せた生臭い匂いのする軒先で、もう店をしもうたらしい若者が、猿股一つの裸に鈍い軒灯の光をあびながら将棋をしていましたが、浜子を見ると、どこ行きでンねンと声を掛けました。すると、浜子・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・右隣りの畠を隔てて家主の茅屋根が見られた。 雪庇いの筵やら菰やらが汚ならしく家のまわりにぶら下って、刈りこまない粗葺きの茅屋根は朽って凹凸になっている。「……これかい、ずいぶんひどい家だねえ」 耕吉は思わず眼を瞠って言った。・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫