・・・けれども今、冷やかな山懐の気が肌寒く迫ってくる社の片かげに寂然とすわっている老年の巫女を見ては、そぞろにかなしさを覚えずにはいられない。 私は、一生を神にささげた巫女の生涯のさびしさが、なんとなく私の心をひきつけるような気がした。・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・ と優しい声を聞いて、はっとした途端に、真上なる山懐から、頭へ浴びせて、大きな声で、「何か、用か。」と喚いた。「失礼!」 と言う、頸首を、空から天狗に引掴まるる心地がして、「通道ではなかったんですか、失礼しました、失礼で・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 姫の紫の褄下に、山懐の夏草は、淵のごとく暗く沈み、野茨乱れて白きのみ。沖の船の燈が二つ三つ、星に似て、ただ町の屋根は音のない波を連ねた中に、森の雲に包まれつつ、その旅館――桂井の二階の欄干が、あたかも大船の甲板のように、浮いている。・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
朝六つの橋を、その明方に渡った――この橋のある処は、いま麻生津という里である。それから三里ばかりで武生に着いた。みちみち可懐い白山にわかれ、日野ヶ峰に迎えられ、やがて、越前の御嶽の山懐に抱かれた事はいうまでもなかろう。――・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・下は一面、山懐に深く崩れ込みたる窪地にて、草原。苗樹ばかりの桑の、薄く芽ぐみたるが篠に似て参差たり。一方は雑木山、とりわけ、かしの大樹、高きと低き二幹、葉は黒きまで枝とともに茂りて、黒雲の渦のごとく、かくて花菜の空の明るきに対す。花・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 田畑を隔てた、桂川の瀬の音も、小鼓に聞えて、一方、なだらかな山懐に、桜の咲いた里景色。 薄い桃も交っていた。 近くに藁屋も見えないのに、その山裾の草の径から、ほかほかとして、女の子が――姉妹らしい二人づれ。……時間を思っても、・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・西の山懐より真直に立ちのぼる煙の末の夕日に輝きて真青なるをみつめしようなり。「紀州は親も兄弟も家もなき童なり、我は妻も子もなき翁なり。我彼の父とならば、彼我の子となりなん、ともに幸いならずや」独語のようにいうを人々心のうちにて驚きぬ、こ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ こういう山径のつき当りに、広業寺という寺があって、永平寺のわかれなのだそうだが、尼さんがあずかって暮している。山懐の萩の生えた赫土を切りわったようなところに、一つの温泉がある、そこには何だか難かしい隷書の額がかかっていたので、或る日、・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
出典:青空文庫