・・・ 境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走に、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそと樹を潜って廂に隠れる。 帳場は遠し、あとは雪が・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ここ嶮峻なる絶壁にて、勾配の急なることあたかも一帯の壁に似たり、松杉を以て点綴せる山間の谷なれば、緑樹長に陰をなして、草木が漆黒の色を呈するより、黒壁とは名附くるにて、この半腹の洞穴にこそかの摩利支天は祀られたれ。 遥かに瞰下す幽谷は、・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
一 信吉は、学校から帰ると、野菜に水をやったり、虫を駆除したりして、農村の繁忙期には、よく家の手助けをしたのですが、今年は、晩霜のために、山間の地方は、くわの葉がまったく傷められたというので、遠くからこの辺にまで、くわの葉を買い・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・――赤い日傘――白い旗――黒い人の一列――山間の村でこういう景色を見ることは、さながら印象主義の画を見るような、明るいうちに哀愁が感じられた。 夕暮方、温泉場の町を歩いていると、夫婦連の西洋人を見た。男は肥えて顔が赤かった。女は痩せて丈・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
山間の寂しい村には、秋が早くきました。一時、木々の葉が紅葉して、さながら火の燃えついたように美しかったのもつかの間であって、身をきるようなあらしのたびに、山はやせ、やがて、その後にやってくる、長い沈黙の冬に移らんとしていたのです。そこ・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・私は好んでこんな山間にやって来ているわけではなかった。私は早く都会へ帰りたい。帰りたいと思いながら二た冬もいてしまったのである。いつまで経っても私の「疲労」は私を解放しなかった。私が都会を想い浮かべるごとに私の「疲労」は絶望に満ちた街々を描・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 私はながい間ある山間の療養地に暮らしていた。私はそこで闇を愛することを覚えた。昼間は金毛の兎が遊んでいるように見える谿向こうの枯萱山が、夜になると黒ぐろとした畏怖に変わった。昼間気のつかなかった樹木が異形な姿を空に現わした。夜の外出に・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・ 住民は、天然の地勢によって山間に閉めこまれているのみならず、トロッコ路へ出るには、必ず、巡査上りの門鑑に声をかけなければならなかった。その上、門鑑から外へ出て行くことは、上から睨まれるもとだった。 門鑑は、外から這入って来る者に対・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・ 今この村の入口へ川上の方から来かかった十三ばかりの男の児がある。山間僻地のここらにしてもちと酷過ぎる鍵裂だらけの古布子の、しかもお坊さんご成人と云いたいように裾短で裄短で汚れ腐ったのを素肌に着て、何だか正体の知れぬ丸木の、杖には長く天・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 秋は早い奥州の或山間、何でも南部領とかで、大街道とは二日路も三日路も横へ折れ込んだ途方もない僻村の或寺を心ざして、その男は鶴の如くにせた病躯を運んだ。それは旅中で知合になった遊歴者、その時分は折節そういう人があったもので、律詩の一、二・・・ 幸田露伴 「観画談」
出典:青空文庫