・・・ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。――迷信に近いほどそんなことが思われた。そして旱の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。 そうした心の静けさとかすかな秋の先・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 戸数五百に足らぬ一筋町の東の外れに石橋あり、それを渡れば商家でもなく百姓家でもない藁葺き屋根の左右両側に建ち並ぶこと一丁ばかり、そこに八幡宮ありて、その鳥居の前からが片側町、三角餅の茶店はこの外れにあるなり。前は青田、青田が尽きて塩浜・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 老人は、脚が、かなわなくなったものゝのように歩みが遅かった。左右から憲兵が腕をとって引きたてゝていた。老人の表情は、次第に黒くなった。眼尻の下った、平ぺったい顔、陋屋と阿片の臭い。彼は、今にも凋んだ唇を曲げて、黄色い歯糞のついた歯を露・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・を立て、二のたてじに棟を渡し、肘木を左右にはね出させて、肘木と肘木とを木竿で連ねて苫を受けさせます。苫一枚というのは凡そ畳一枚より少し大きいもの、贅沢にしますと尺長の苫は畳一枚のよりよほど長いのです。それを四枚、舟の表の間の屋根のように葺く・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。「オイ、とうさんが見てるよ。」 と言って、三郎はそこへ笑いころげた。 私たちの心はすでに半分今の住居を去っていた。 私は茶の間に集まる子供らから離れて・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 焔は暗くなり、それから身悶えするように左右にうごいて、一瞬大きく、あかるくなり、それから、じじと音を立てて、みるみる小さくいじけて行って、消えた。 しらじらと夜が明けていたのである。 部屋は薄明るく、もはや、くらやみではなかっ・・・ 太宰治 「朝」
・・・その幕の一部を左右に引きしぼったように梓川の谿谷が口を開いている。それが、まだ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想わせるのであった。 島々からのバスの道路が次第次第に梓川の水面から高く離れて行く。ある地点では車の窓か・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・鉄の門の内側は広大な熊本煙草専売局工場の構内がみえ、時計台のある中央の建物へつづく砂利道は、まだつよい夏のひざしにくるめいていて、左右には赤煉瓦の建物がいくつとなく胸を反らしている。―― いつものように三吉は、熊本城の石垣に沿うてながい・・・ 徳永直 「白い道」
・・・墓地本道の左右に繁茂していた古松老杉も今は大方枯死し、桜樹も亦古人の詩賦中に見るが如きものは既に大抵烏有となったようである。根津権現の花も今はどうなったであろうか。 根津権現の社頭には慶応四年より明治二十一年まで凡二十一年間遊女屋の在っ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣のごとき形ちをしてその一番高い背筋を通して硝子張りの明り取りが着いている。このアチックに洩れて来る光線は皆頭の上から真直に這入る。そうしてその頭の上は硝子一枚を隔てて全世界に通ずる大空である。眼に遮るも・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫