・・・ 帰宅してみると猫が片頬に饅頭大な腫物をこしらえてすこぶる滑稽な顔をして出迎えた。夏中ぽつりぽつり咲いていたカンナが、今頃になって一時に満開の壮観を呈している。何とか云う名の洋紅色大輪のカンナも美しいが、しかし札幌円山公園の奥の草花園で・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・長男が中学校の始業日で本所の果てまで行っていたのだが地震のときはもう帰宅していた。それで、時々の余震はあっても、その余は平日と何も変ったことがないような気がして、ついさきに東京中が火になるだろうと考えたことなどは綺麗に忘れていたのであった。・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・冬初めに偶然ちょっと帰宅したときに、もうほとんど散ってしまったあとに、わずかに散り残って暗紅色に縮み上がった紅葉が、庭の木立ちを点綴しているのを見て、それでもやっぱり美しいと思ったことがあった。それっきり、ついぞ一度も自分の庭の紅葉というも・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・ 断定的に帰宅を促した電文が、それから間もなく辰之助の家からお絹の家へ届いて、道太はにわかに出立を急ぐことになった。 支度をしに二階へあがると、お絹もついてきて、荷造りをしてくれた。「こんなものはバスケットがいいんでしょう」お絹・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・弁当の足りないことを心のうちに歎じつつ、彼等も人の子らしく、おそろしい電車にもまれて、出勤し、帰宅していると思う。官吏の経済事情は、旧市内のやけのこったところに邸宅をもつことは許さないから、多数の人々は、会社線をも利用して、遙々とたつきのた・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・ 一月○日 午後二時頃、バラさんと寿江子の間に挾まれて、スーツ・ケイスなど足もとにつめこんで自動車で帰宅。茶の間の敷居に立って久しぶりの部屋を見まわす。真白な天井や壁ばかり見ていたので、障子のこまかい棧、長押、襖の枠、茶だんす、・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・ うちでは三日夜寿江子が帰り、五日午後咲枝が腕に赤ん坊を抱いて、湯上りのような顔をして帰宅しました。これで一家の顔が揃い、私は病人に戻ってよいわけですが、泰子を誰がひき受けるかということもきまらず、女中の一人が兄貴にけんかをふっかけさせ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・二月二日、五日間帰宅を許されて帰っていた私が、黒い紋付を着て坐っている食堂の例のテーブルの傍で、咲枝が書いたハガキにより、貴方が私の健康につき最悪の場合さえ起り兼ねまじく御思いになったこと、後から林町のものたちへ下すったお手紙を見せて貰って・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・食後、暫く構内の散歩をし、誘い合って帰宅する時間まで、三時間なり四時間なり又研究を続けると云う訳なのです。 両人に仕事のある日、夕飯は、静に落付いて食べると云うのが主眼で、決して無暗に手のかかったものを幾品も作ることはありません。大抵、・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・三四時頃Aが帰宅し、夕飯六時。一時間も、肴町、白山の方を散歩し、少し勉強し、風呂に入り眠る。 プルタークの英雄伝を読み、シーザー、アントニオ、カトウ時代のギリシア、ローマ人の生活を、非常に興味深く覚える。 プルタークは、冷静に彼等を・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
出典:青空文庫