・・・リッシュに這入ったとき、大きな帽子を被った別品さんが、おれの事を「あなたロシアの侯爵でしょう」と云って、「あなたにお目に掛かった記念にしますから、二十マルクを一つ下さいな」と云ったっけ。 ホテルに帰ったのは、午前六時であった。自動車のテ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・僕は毎日同じ帽子同じ洋服で同じ事をやりに出て同じ刻限に家に帰って食って寝る。「青春の贅沢」はもう止した。「浮世の匂」をかぐ暇もない。障子は風がもり、畳は毛立っている。霜柱にあれた庭を飾るものは子供の襁褓くらいなものだ。この頃の僕は何だかだん・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・諸君、最上の帽子は頭にのっていることを忘るる様な帽子である。最上の政府は存在を忘れらるる様な政府である。帽子は上にいるつもりであまり頭を押つけてはいけぬ。我らの政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君らの頭にひどく重く感ぜられて、とうとう彼らは無・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ひょうきんな浅川など、弁士が壇をおりたとき、喜んでしまって、帽子を会場の天井になげあげて、ブラボー、ブラボーと踊っている。深水や高坂や、組合員たちもだんだんに帰ってしまい、演説会が終ったときは、三吉をのぞくと、学生だけであった。「そうだ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・五六人の女婢手を束ねて、ぼんやり客俟の誰彼時、たちまちガラ/\ツとひきこみしは、たしかに二人乗の人力車、根津の廓からの流丸ならずば権君御持参の高帽子、と女中はてん/″\に浮立つゝ、貯蓄のイラツシヤイを惜気もなく異韻一斉さらけだして、急ぎいで・・・ 永井荷風 「上野」
公園の片隅に通りがかりの人を相手に演説をしている者がある。向うから来た釜形の尖った帽子を被ずいて古ぼけた外套を猫背に着た爺さんがそこへ歩みを佇めて演説者を見る。演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの村夫子のたたずめる前・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・そのチャンチャン坊主の支那兵たちは、木綿の綿入の満洲服に、支那風の木靴を履き、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、辮髪の豚尾を背中に長くたらしていた。その辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・坊主の除れたフランスのセーラーの被る毛糸帽子。印度の何とか称する貴族で、デッキパッセンジャーとして、アメリカに哲学を研究に行くと云う、青年に貰った、ゴンドラの形と金色を持った、私の足に合わない靴。刃のない安全剃刀。ブリキのように固くなったオ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・と、西宮は小万にめくばせして、「お梅どん、帽子と外套を持ッて来るんだ。平田のもだよ。人車は来てるだろうな」「もうさッきから待ッてますよ」 お梅は二客の外套帽子を取りに小万の部屋へ走ッて行った。「平田さん」と、小万は平田の傍へ寄り・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・わたくしは自分の恐ろしい運命を避けよう、どうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。わたくしは帽子を取って被って、女中にお断りを申上げるように言い附けて置いて、あの家に火事でも起ったように跡をも見ずに逃げました。 わたくしはき・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫