・・・私はそいつの幅広い背を見たように思った。それは新しいそして私の自尊心を傷つける空想だった。そして私はその空想からますます陰鬱を加えてゆく私の生活を感じたのである。 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・いきなり大きな幅広い声がそこらじゅうにはびこりました。「おい。本線シグナルつきの電信柱、おまえの叔父の鉄道長に早くそう言って、あの二人はいっしょにしてやった方がよかろうぜ」 見るとそれは先ごろの晩の倉庫の屋根でした。倉庫の屋根は、赤・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・ 夏の幅広い河の流れの中に一つの石が立っている。河の流れはその石にぶつかって波立ちしぶきをあげ小さい虹を立てる。この光景は美しい。水というものが、どんなに変化することが出来、虹となってかかることが、一つの石のあるために証拠立てられる。こ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『幸福について』)」
・・・きのう雪が降ったのが今日は燦らかに晴れているから、幅広い日光と一緒に、潮の香が炉辺まで来そうだ。光りを背に受けて、露台の籐椅子にくつろいだ装で母がいる。彼女は不機嫌であった。いつも来る毎に水がうまく出ないから腹を立てるのであった。「――・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・揉まれながら俥はどんどん進み、一緒に走ってゆく男の幅広い下駄で踵を打つ音が耳立って淋しく聞えた。 野蛮な声の爆発が鎮ると、都おどりのある間だけ点される提灯の赤い色が夜気に冴える感じであった。 空には月があり、ゆっくり歩いていると・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 空は荘厳な幅広い焔のようだ。重々しい、秒のすぐるのさえ感じられるような日盛りの熱と光との横溢の下で、樹々の緑葉の豊富な燦きかたと云ったら! どんな純粋な油絵具も、その緑玉色、金色は真似られない、実に燃ゆる自然だ。うっとり見ていると肉体がい・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・その犬の飼われている家は、小石川の二つの丘陵地帯を繋ぐ、幅広い坂の中途にある。坂の中途に建った家がよくそうである通り、家全体の地盤が坂より低い。二三段石の踏段を降りて、門から玄関までの敷石を渡ることになっている。細長い、樫の木の生えた、狭く・・・ 宮本百合子 「吠える」
・・・ 暫くして吉は、その丸太を三、四寸も厚味のある幅広い長方形のものにしてから、それと一緒に鉛筆と剃刀とを持って屋根裏へ昇っていった。 次の日もまたその次の日も、そしてそれからずっと吉は毎日同じことをした。 ひと月もたつと四月が来て・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫