・・・「紅雨の最も感動したのは、かの説明者が一々に勿体つける欄間の彫刻や襖の絵画や金箔の張天井の如き部分的の装飾ではなくて、霊廟と名付けられた建築とそれを廻る平地全体の構造配置の法式であった。先ず彎曲した屋根を戴き、装飾の多い扉の左右・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・例の四角な平地を見廻して見ると木らしい木、草らしい草は少しも見えぬ。婆さんの話しによると昔は桜もあった、葡萄もあった。胡桃もあったそうだ。カーライルの細君はある年二十五銭ばかりの胡桃を得たそうだ。婆さん云う「庭の東南の隅を去る五尺余の地下に・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ほっと一息つく間もなく車はすでに坂を下りて平地にあり、けれども毫も留まる気色がない、しかのみならず向うの四ツ角に立ている巡査の方へ向けてどんどん馳けて行く、気が気でない、今日も巡査に叱られる事かと思いながらもやはり曲乗の姿勢をくずす訳に行か・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・麓の低い平地へかけて、無数の建築の家屋が並び、塔や高楼が日に輝やいていた。こんな辺鄙な山の中に、こんな立派な都会が存在しようとは、容易に信じられないほどであった。 私は幻燈を見るような思いをしながら、次第に町の方へ近付いて行った。そして・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・或は婦人が漫に男子の挙動を疑い、根もなき事に立腹して平地に波を起すが如き軽率もあらんか、是れぞ所謂嫉妬心なれども、今の男子社会の有様は辛苦して其微を窺うに及ばず、公然の秘密と言うよりも寧ろ公然の公けとして醜体を露す者こそ多けれ。家に遺伝の遺・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・崖の下を見ると牛の群がっておる例の平地はすぐ目の前にまで近づいて来て居ったのに驚いた。余の位地は非常に下って来たのである。其処らの叢にも路にもいくつともなく牛が群れて居るので余は少し当惑したが、幸に牛の方で逃げてくれるので通行には邪魔になら・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・猿ヶ石川の南の平地に十時半ころまでにできた。それからは洪積層が旧天王の安山集塊岩の丘つづきのにも被さっているかがいちばんの疑問だったけれどもぼくたちは集塊岩のいくつもの露頭を丘の頂部近くで見附けた。結局洪積紀は地形図の百四十米の線以下という・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・動物園から帰って来るとき、谷中のお寺の多いだらだら坂を下りて、惰力のついた足どりでその石橋をわたると、暫く平地で、もう一つ団子坂をのぼらなければ林町の通りへ来られなかった。 藍染川と団子坂との間の右側に、「菊見せんべい」の大きな店があっ・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・ところどころ紫色の岩の露われている所を通って、やや広い平地に出る。そこに雑木が茂っているのである。 厨子王は雑木林の中に立ってあたりを見廻した。しかし柴はどうして苅るものかと、しばらくは手を着けかねて、朝日に霜の融けかかる、茵のような落・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・村から二、三町で松や雑木の林が始まり、それが子供にとって非常に広いと思われるほど続いて、やがて山の斜面へ移るのであるが、幼いころの茸狩りの場所はこの平地の林であり、小学校の三、四年にもなれば山腹から頂上へ、さらにその裏山へと探し回った。今で・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫