・・・しかし平生儒学を奉じておられた事から推量しても、わたくしが年少のころに作った『夢の女』のような小説をよんで、喜ばれるはずがない事は明である。 父は二十余年のむかしに世を去られた。そして、わたくしは今やまさに父が逝かれた時の年齢に達せむと・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・傍らには彼が平生使用した風呂桶が九鼎のごとく尊げに置かれてある。 風呂桶とはいうもののバケツの大きいものに過ぎぬ。彼がこの大鍋の中で倫敦の煤を洗い落したかと思うとますますその人となりが偲ばるる。ふと首を上げると壁の上に彼が往生した時に取・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 秋山は、ベルの中絶するのを待っている間中、十数年来、曾てない腰の痛みに悩まされていた。その時間は二分とはなかった、が彼には二時間にも思えた。 秋山は平生から信じていた。導火線に火を移す時は、たといどんな病気でも、一時遠慮するものだ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・「なに平気なものか。平生あんなに快濶な男が、ろくに口も利き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得ないくらいだ」「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」「いや・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・家に居るは其苦楽を共にするの契約なるが故に、一家貧にして衣食住も不如意なれば固より歌舞伎音曲などの沙汰に及ぶ可らず、夫婦辛苦して生計にのみ勉む可きなれども、其勉強の結果として多少の産を成したらんには、平生の苦労鬱散の為めに夫婦子供相伴うて物・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・それは第一に、平生紳士らしい行動をしようと思っていて、近ごろの人が貴夫人に対して、わざとらしいように無作法をするのに、心から憤っていたからである。第二にはジネストの奥さんの手紙が表面には法律上と処世上との顧問を自分に託するようであって、その・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ある日、多田氏の平生窟より人おこせ、おのが庵の壁の頽れかかれるをつくろはす来つる男のこまめやかなる者にて、このわたりはさておけよかめりとおのがいふところどころをもゆるしなう、机もなにもうばひとりてこなたかなたへうつしやる、おのれは盗・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・満州問題がおこって以来、婦人雑誌を読む女のひとの間に和歌と習字との流行が擡頭している事実を考え、またそのことと、今度平生文相が行おうとしている学制改革案で男の学生には「労働証」女の学生には「家政証」を制定することとを思いあわせ、私は自分もひ・・・ 宮本百合子 「歌集『集団行進』に寄せて」
・・・一度妻を持って、不幸にして別れたが、平生何かの機会で衝突する度に、「あなたはわたしを茶かしてばかしいらっしゃる」と云うのが、その細君の非難の主なるものであった。 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる為事に対する「遊び」の心・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ですからあなたの長所が平生の倍以上になったのがどんなにか嬉しゅうございましたでしょう。 男。なるほど。旨くたくらんだものですね。しかしやっぱり女の智慧です。 女。なぜでございますの。 男。でも手紙を一本落しなすったばかりで、せっ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫