・・・慶四郎君は起き上り、チョッと言って片足で床板をとんと踏む。それが如何にも残念そうに見えた。その動作が二十幾年後の今になっても私には忘れられず、慶四郎君と言えばその動作がすぐ胸中に浮んで来て、何だか慶四郎君を好きになるのである。慶四郎君は小学・・・ 太宰治 「雀」
・・・玄関からまっすぐに長い廊下が通じていて、廊下の板は、お寺の床板みたいに黒く冷え冷えと光って、その廊下の尽きるところ、トンネルの向う側のように青いスポット・ライトを受けて、ぱっと庭園のその大滝が望見される。葉桜のころで、光り輝く青葉の陰で、ど・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・ 主人は、憤激しているようなひどく興奮のていで、矢庭に座敷の畳をあげ、それから床板を起し、床下からウィスキイの角瓶を一本とり出した。「万歳!」と僕は言って、拍手した。 そうして、僕たちはその座敷にあがり込んで乾杯した。「先生、相・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
一 古い伝統の床板を踏み抜いて、落ち込んだやっぱり中古の伝統長屋。今度の借家は少し安普請で、家具は仕入れ。ボールの机にブリキの時計、時計はいつでも三十度くらい傾いて、そして二十五時のところで止ってい・・・ 寺田寅彦 「二科狂想行進曲」
・・・ちょうど鶴のような足取りで二歩三歩あるくと、立ち止まって首を下げて嘴で桟橋の床板をゴトンゴトンと音を立ててつっついている。そういう挙動を繰返しながら一直線に進んで行くのである。 私はその器械の仕掛けを不思議に思うよりも、器械の目的が何だ・・・ 寺田寅彦 「夢」
・・・低い天井と床板と、四方の壁とより外には何にも無いようなガランとした、湿っぽくて、黴臭い部屋であった。室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛の網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、灯っていた。リノリュームが膏薬のように床板の上へ所々へ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・陰気な程深い張出しつきの教師館を修繕中で、朽ちた床板がめくられ、湿っぽい土の匂がする。テニス・コートらしい空地で、緑の草を女がむしっている。私はやっと、御堂内では一切穿物を許さないということだけを知り得、荒れた南欧風の小径を再び下った。御堂・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・四月二十八日にはそれまで館の居間の床板を引き放って、土中に置いてあった棺を舁き上げて、江戸からの指図によって、飽田郡春日村岫雲院で遺骸を荼だびにして、高麗門の外の山に葬った。この霊屋の下に、翌年の冬になって、護国山妙解寺が建立せられて、江戸・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・雨漏りの痕が怪しげな形を茶褐色に画いている紙張の天井、濃淡のある鼠色に汚れた白壁、廊下から覗かれる処だけ紙を張った硝子窓、性の知れない不潔物が木理に染み込んで、乾いた時は灰色、濡れた時は薄墨色に見える床板。こう云う体裁の広間である。中にも硝・・・ 森鴎外 「食堂」
出典:青空文庫