・・・ 少々極が悪くって、しばらく、背戸へ顔を出さなかった。 庭下駄を揃えてあるほどの所帯ではない。玄関の下駄を引抓んで、晩方背戸へ出て、柿の梢の一つ星を見ながら、「あの雀はどうしたろう。」ありたけの飛石――と言っても五つばかり――を漫に・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 手を洗って、ガタン、トンと、土間穿の庭下駄を引摺る時、閉めて出た障子が廊下からすッと開いたので、客はもう一度ハッとした。 と小がくれて、その中年増がそこに立つ。「これは憚り……」「いいえ。」 と、もう縞の小袖をしゃんと・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・平家づくりで、数奇な亭構えで、筧の流れ、吹上げの清水、藤棚などを景色に、四つ五つ構えてあって、通いは庭下駄で、おも屋から、その方は、山の根に。座敷は川に向っているが、すぐ磧で、水は向う岸を、藍に、蒼に流れるのが、もの静かで、一層床しい。籬ほ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ カラカラと庭下駄が響く、とここよりは一段高い、上の石畳みの土間を、約束の出であろう、裾模様の後姿で、すらりとした芸者が通った。 向うの座敷に、わやわやと人声あり。 枝折戸の外を、柳の下を、がさがさと箒を当てる、印半纏の円い背が・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・そこはおせんが着物の裾を帯の間に挿んで、派手な模様の長襦袢だけ出して、素足に庭下駄を穿きながら、草むしりなぞを根気にしたところだ。大塚さんは春らしい日の映った庭土の上を歩き廻って、どうかすると彼女が子供のように快活であったことを思出した。・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・恍惚としていた時に雨を侵す傘の音と軽い庭下駄の音が入口に止んで白い浴衣の姿が見えた。女中のお房が雨戸をしめに来たのである。自分は笛を下に置いて座敷にはいった。女中は縁側の戸を一枚々々としめて行って残る一枚を半ばで止め、暗い庭の方をじっと見て・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ へやは第一の廊下を右へ折れて、そこの縁側から庭下駄をはいて、二足三足たたきの上を渡らなければはいれない代わりにどことも続いていないところが、まるで一軒立ちの観を与えた。天井の低いのや柱の細いのが、さも茶がかった空気を作るとともに、いか・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・高さは木賊よりもずっと低い。庭下駄を穿いて、日影の霜を踏み砕いて、近づいて見ると、公札の表には、この土手登るべからずとあった。筆子の手蹟である。 午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だと・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 私は、庭下駄を突かけてたたきに降りた。そして「パッピー、パッピー」と手を出すと、黒いぬれた鼻をこすりつけて、一層盛に尾を振る。「野良犬ではないらしいわね。どうなすったの?」「つい其処に居たんだ。通る人だれの・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ 向島の芸者 ○ちりめんに黒い帯をしめ、かりた庭下駄の、肉感的極る浅草辺の女優と男二人の組。 ○カマクラの海浜ホテルで見た、シャンパンをぬいた I love you が、又あの水浅黄格子木綿服の女と、他に子供づれ・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
出典:青空文庫