・・・』そこで私は徐に赤いモロッコ皮の椅子を離れながら、無言のまま、彼と握手を交して、それからこの秘密臭い薄暮の書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子でも偸み聴いてい・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 監獄の廊下は寂しい。十五人の男の歩く足音は、穹窿になっている廊下に反響を呼び起して、丁度大きな鉛の弾丸か何かを蒔き散らすようである。 処刑をする広間はもうすっかり明るくなっている。格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・という番頭の声に連れて、足も裾も巴に入乱るるかのごとく、廊下を彼方へ、隔ってまた跫音、次第に跫音。この汐に、そこら中の人声を浚えて退いて、果は遥な戸外二階の突外れの角あたりと覚しかった、三味線の音がハタと留んだ。 聞澄して、里見夫人、裳・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 内廊下を突抜け、外の縁側を右へ曲り、行止りから左へ三尺許りの渡板を渡って、庭の片隅な離れの座敷へくる。深夜では何も判らんけれど、昨年一昨年と二度ともここへ置かれたのだから、来て見ると何となくなつかしい。平生は戸も明けずに置くのか、空気・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・やがてはしご段をあがって、廊下に違った足音がすると思うと、吉弥が銚子を持って来たのだ。けさ見た素顔やなりふりとは違って、尋常な芸者に出来あがっている。「けさほどは失礼致しました」と、しとやかながら冷かすように手をついた。「僕こそお礼・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 私の実見は、唯のこれが一度だが、実際にいやだった、それは曾て、麹町三番町に住んでいた時なので、其家の間取というのは、頗る稀れな、一寸字に書いてみようなら、恰も呂の字の形とでも言おうか、その中央の棒が廊下ともつかず座敷ともつかぬ、細長い部屋・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・ まず廊下に面した障子をあけた。それから廊下に出て、雨戸をあけようとした。暫らくがたがたやってみたが、重かった。雨戸は何枚か続いていて、端の方から順おくりに繰っていかねば駄目だと、判った。そのためには隣りの部屋の前に立つ必要がある。私は・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 彼が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくなりぬ。車のあとより車の多くは旅鞄と客とを載せて、一里先なる停車場を指して走りぬ。膳の通い茶の通いに、久・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・二郎述べおわりて座につくや拍手勇ましく起こり、かれが周囲には早くも十余人のもの集まりたり。廊下に出ずるものあり、煙草に火を点ずるものあり、また二人三人は思い思いに椅子を集め太き声にて物語り笑い興ぜり。かかる間に卓上の按排備わりて人々またその・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
出典:青空文庫