・・・ 重吉は夢中で怒鳴った、そして門の閂に双手をかけ、総身の力を入れて引きぬいた。門の扉は左右に開き、喚声をあげて突撃して来る味方の兵士が、そこの隙間から遠く見えた。彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 私は、ほつれた行李の柳を引き千切って、運河へ放り込みながら、そう云った。「おい! そんな自棄を云うもんじゃないよ。それよりも、おとなしく『合意雇止め』にしてやるから、ボーレンで一ヵ月も休んで、傷を癒してから後の事は、又俺でも世話を・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・底についたらしく手に感じたとき、すぐにグイグイと引っぱられ、あわてて引きあげてみると、大きなソコブクがかかっていた。釣れるときにはこんなにあっけなくかかるのに、釣れないとなると、どうにもしかたがないものである。私が成功したのは後にも先にもこ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急いで上草履を引き摺ッている。 お熊は四十格向で、薄痘痕があッて、小鬢に禿があッて、右の眼が曲んで、口・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・余輩はただ今後の成行に眼をつけ、そのいずれかまず直接法の不便利を悟りて、前に出したる手を引き、口を引き、理屈を引き、さらに思想を一層の高きに置きて、無益の対陣を解く者ならんと、かたわらより見物して水掛論の落着を待つのみ。 この全編の大略・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・その田舎の女とはどんな物かと申しますと、恋の実体を夫婦と云う事から引き放して考えることの出来ない女だと申すのでございます。これは多数の女のために極めて不幸な事でございます。そしてわたくしはその不幸を身に受けなくてはならぬ一人でございます。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そこで草臥た高慢の中にある騙された耳目は得べき物を得る時無く、己はこの部屋にこの町に辛抱して引き籠っているのだ。世間の者は己を省みないのが癖になって、己を平凡な奴だと思っているのだ。(家来来て桜実一皿を机の上に置き、バルコンの戸を鎖戸はまあ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・例えば万葉時代には実地より出でたる恋歌の著しく多きに引きかえ『曙覧集』には恋歌は全くなくして、親を懐い子を悼み時を歎くの歌などがかえって多きがごとし。 曙覧の歌、四になる女の子を失いてきのふまで吾衣手にとりすがり父よ父よといひて・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・(いいとも、いいとも、確かにおれが引き取そのとき次々に雁が地面に落ちて来て燃えました。大人もあれば美しい瓔珞をかけた女子もございました。その女子はまっかな焔に燃えながら、手をあのおしまいの子にのばし、子供は泣いてそのまわりをはせめぐったと申・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 霞は人の心を引きくるめて沙婆のまんなかへつれて来る。霧は禁慾的な、隠遁的な気分に満ちて居る。 私は今の処は霧の方を好いて居る。 冷静な頭に折々はなりたいと思うからだ。 霧の立ちこめた中に只一人立って、足元にのびて居る自分の・・・ 宮本百合子 「秋霧」
出典:青空文庫