・・・明治の末、わたくしが西洋から帰って来た頃には梅花は既に世人の興を牽くべき力がなかった。向嶋の百花園などへ行っても梅は大方枯れていた。向嶋のみならず、新宿、角筈、池上、小向井などにあった梅園も皆閉され、その中には瓦斯タンクになっていた処もあっ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・三次は握って居た荒繩をぐっと曳くと犬は更に大地へしがみついたように身を蹙めた。三次が棒を翳した時繩は切れそうにぴんと吊った。其の瞬間棒はぽくりと犬の頭部を撲った。犬は首を投げた。口からは泡を吹いて後足がぶるぶると顫えた。そうして一声も鳴かな・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 一 夢 百、二百、簇がる騎士は数をつくして北の方なる試合へと急げば、石に古りたるカメロットの館には、ただ王妃ギニヴィアの長く牽く衣の裾の響のみ残る。 薄紅の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そこで、サーッと引くと、タコはカギに引っかかってあがって来るのである。この引きどきがコツで、あやまると逃がしてしまうから、やはり腕がいるのである。 船底に引きあげられたイイダコは怒って黒い汁を吐く。内側に向かっても放射するのか、全身が黒・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・平田は上を仰き眼を合り、後眥からは涙が頬へ線を画き、下唇は噛まれ、上唇は戦えて、帯を引くだけの勇気もないのである。 二人の定紋を比翼につけた枕は意気地なく倒れている。燈心が焚え込んで、あるかなしかの行燈の火光は、「春如海」と書いた額に映・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・天下の男子にして女大学の主義を云々するは、多くは此好色男子の類にして、我田に水を引くものなり。女子たる者は決して油断す可らず。 扨女大学の離縁法は右に記したる七去にして、民法親族編第八百十二条に、夫婦の一方は左の場合に限り離婚の訴を提起・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・我宿にいかに引くべき清水かなのごとく「いかに」「何」等の係りを「かな」と結びたるは蕪村以外にも多し。大文字近江の空もたゞならねの「ね」のごとき例も他になきにあらず、蕪村は終止言としてこれを用いたるか、あるいは前に挙げたる「た・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・まだ少しあかるいのに、青いアセチレンや、油煙を長く引くカンテラがたくさんともって、その二階には奇麗な絵看板がたくさんかけてあったのだ。その看板のうしろから、さっきからのいい音が起っていたのだ。看板の中には、さっきキスを投げた子が、二疋の馬に・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・ 櫛の歯が引っかかる処を少し力を入れて引くとゾロゾロゾロゾロと細い髪が抜けて来る。 三度目位までは櫛一杯に抜毛がついて来る。 袖屏風の陰で抜毛のついた櫛を握ってヨロヨロと立ちあがる抜け上った「お岩」の凄い顔を思い出す。 只さ・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・ 弥一右衛門はその日詰所を引くと、急使をもって別家している弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具をはずさせ、嫡子権兵衛、二男弥五兵衛、つぎにまだ前髪のある五男七之丞の三人をそばにおらせて、主人は威儀を正して待ち受けている。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫