・・・年の割合には気は若いけれど、からだはもう人並み以上である。弱音を吹いて見たところで、いたずらに嘲笑を買うまでで、だれあって一人同情をよせるものもない。だれだってそうだといわれて見るとこれきりの話だ。 省作も今は、なあにという気になった。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・が、壱岐殿坂時代となると飛白の羽織を着初して、牛肉屋の鍋でも下宿屋の飯よりは旨いなどと弱音を吹き初した。今は天麩羅屋か何かになってるが、その頃は「いろは」といった坂の曲り角の安汁粉屋の団子を藤村ぐらいに喰えるなぞといって、行くたんびに必ず団・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・耕吉はつくづくそう思って、思わず弱音を吐いた。「何しろ家賃が一カ月七十銭という家だからな、こんなもんだろう」と老父は言ったが、嫁や孫たちが可哀想だという口吻でもあった。「古いには古い家でごいす。俺が子供の時分の寺小屋だったでなあ。何・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・しかし、私は弱音を吐くことは許されない。「ここへ来るとたれかにいったの?」「いいえ、こっそり畑から来ました」「――何にもありはしまいが、じゃあこちらで泊っていらっしゃい」 十六の女中は、背後を見い見い、「おらあ……雨戸し・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・而も、その小部分によほど、弱音器がかけられていると思う。大人は子供に水を割った葡萄酒を飲ませる。――そんな意味で、ひとりでに、極自由な、溌溂と全幅の真面目を発揮する氏の風貌に接する機会のなかったのは残念であった。〔一九二五年十二月〕・・・ 宮本百合子 「狭い一側面」
出典:青空文庫