・・・紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切れ、解け、もつれて土蜘蛛の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期の呪を負うて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・帯がないから、店を張るのに、どんなに外見が悪いだろう。返す返すッて、もう十五日からになるよ」「名山さん、私しのなんかもひどいじゃアないかね。お客から預かッていた指環を借りられたんだよ。明日の朝までとお言いだから貸してやッたら、それッきり・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一日を送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸く繁盛を致し、最前はただ杉檜の指物膳箱などを製し、元結の紙糸を捻る等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄傘を作る者あり、提灯を張る者あり、或は白木の指物細工に漆を塗て・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・〔『日本』明治三十二年四月二十二日〕酔人の水にうちいるる石つぶてかひなきわざに臂を張る哉 これも上三句重く下二句軽し。曙覧の歌は多くこの頭重脚軽の病あり。宰相君よりたけを賜はらせけるに秋の香をひろげた・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・「なんでもかんでも、おれは山師張るときめた。」 するとも一人の白い笠をかぶった、せいの高いおじいさんが言いました。「やめろって言ったらやめるもんだ。そんなに肥料うんと入れて、藁はとれるたって、実は一粒もとれるもんでない。」「・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・「強情張るにも程がある。ほら、ほら! そんなにあるのに無いって私をだますのか、ほら、ほら! ああ、蓮だらけだよう!」と、彼女はおいおい泣いて亭主にかじりついた。――これが気違いになり始めだと云う噂であった。村へ帰って来ても発狂は治ら・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・中にも硝子窓は塵がいやが上に積もっていて、硝子というものの透き徹る性質を全く失っているのだから、紙を張る必要はない。それに紙が張ってあるのは、おおかた硝子を張った当座、まだ透き徹って見えた頃に発明の才のある役人がさせた事だろう。 この広・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようなら・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・といい罵るものもありましたが、また元の奥様を知っていた人から、すぐに聞たッて、一々ほんとうだといい張る者さえあったんです。その話というはこうなんです。 人の知らない遠い片田舎に、今の奥さまが、まだ新嫁でいらしッたころ、一人の緑子を形見に・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・我を張るのは自己を殺すことであった。自己を愛において完全に生かせるためには、私はまだまだ愛の悩み主我心の苦しみを――愛し得ざる悲しみを――感じていなくてはならない。 しかし私はこの愛の理想のゆえに一つの「人間」の姿を描きたいと思う。主我・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫