・・・ 遠藤は鍵穴に眼を当てたまま、婆さんの答を待っていました。すると婆さんは驚きでもするかと思いの外、憎々しい笑い声を洩らしながら、急に妙子の前へ突っ立ちました。「人を莫迦にするのも、好い加減におし。お前は私を何だと思っているのだえ。私・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・習机を前に、ずしりと一杯に、座蒲団に坐って、蔽のかかった火桶を引寄せ、顔を見て、ふとった頬でニタニタと笑いながら、長閑に煙草を吸ったあとで、円い肘を白くついて、あの天眼鏡というのを取って、ぴたりと額に当てられた時は、小僧は悚然として震上った・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・またしばらく額を枕へ当てたまま打つ伏せになってもがいている。 全く省作は非常にくたぶれているのだ。昨日の稲刈りでは、女たちにまでいじめられて、さんざん苦しんだためからだのきかなくなるほどくたぶれてしまった。「百姓はやアだなあ……。あ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・おッ母さんから一筆青木に当てた依頼状さえあれば、あすにも楽な身になれるというので、僕は思いも寄らない偽筆を頼まれた。 八 青木というのは、来遊の外国人を当て込んで、箱根や熱海に古道具屋の店を開き、手広く商売が出来てい・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、老の漸く来らんとするころとうとう一の富を突き当てて妙齢の美人を妻とした。 尤も笑名はその時は最早ただの軽焼屋ではなかった。将軍家大奥の台一式の御用を勤めるお台屋の株を買って立派な旦那衆となって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ただ一度檻房へ来た事のある牧師に当てて、書き掛けた短い手紙が一通あった。牧師は誠実に女房の霊を救おうと思って来たのか、物珍らしく思って来て見たのか、それは分からぬが、兎に角一度来たのである。この手紙は牧師の二度と来ぬように、謂わば牧師を避け・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・たゞお母さんの胸に顔を当てていれば、たとえ死の苦しみが迫って来ても堪ることが出来る。お母さんだけが、いつも自分と共にあることを信ずるし、お母さんだけが、最後まで、自分の味方だと信ずるからです。子供は、お母さんとなら、火の中へでも、水の中へで・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
・・・「なに、懐炉を当ててるから……今日はそれに、一度も通じがねえから、さっき下剤を飲んで見たがまだ利かねえ、そのせいか胸がムカムカしてな」「いけないね、じゃもう一度下剤をかけて見たらどうだね!」「いいや、もう少し待って見て、いよいよ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・が、線路工夫には見つからずにすんで、いわば当てが外れたみたいなものでした。その弁当でいくらか力がついたので、またトボトボと歩いて、静岡まで来ましたが、ふらふらになりながら、まず探したのは交番、やっと辿りついて豊橋で弁当を盗んだことを自首しま・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・これが家であったら、さぞなア、好かろうになアと…… 妙な声がする。宛も人の唸るような……いや唸るのだ。誰か同じく脚に傷を負って、若くは腹に弾丸を有って、置去の憂目を見ている奴が其処らに居るのではあるまいか。唸声は顕然と近くにするが近処に・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫