・・・小説雁の一篇は一大学生が薄暮不忍池に浮んでいる雁に石を投じて之を殺し、夜になるのを待ち池に入って雁を捕えて逃走する事件と、主人公の親友が学業の卒るを待たずして独逸に遊学する談話とを以て局を結んでいる。今日不忍池の周囲は肩摩轂撃の地となったの・・・ 永井荷風 「上野」
・・・彼はお石を待ち焦れて居た。其秋のマチにも瞽女は隊を組んで幾らも来た。其頃になってからは瞽女の風俗も余程変って来て居た。幾らか綺麗な若いものは三味線よりも月琴を持って流行唄をうたって歩いた。そうして目明が多くなった。お石は来なかった。それっき・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・人気のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒の夜を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。 桓武天皇の御宇に、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやす・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・余り帰りが遅くなるので、秋山の長屋でも、小林の長屋でも、チャンと一緒に食う筈になっている、待ち切れない夕食を愈々待ち切れなくなった、餓鬼たちが騒ぎ出した。「そんなに云うんだったら、帳場に行ってチャンを連れて来い」 と女房たちが子供に・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・間一般の気風兎角落付かず、恰も物に狂する如くにして、真面目に女学論など唱うるも耳を傾けて静に之を聞くもの有りや無しや甚だ覚束なき有様なるにぞ、只これを心に蓄うるのみにして容易に発せず、以て時機の到来を待ちたりしに、爾来世運の進歩に随い人の心・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・余は病牀でそれを待ちながら二人が爪上りのいちご畑でいちごを摘んでいる光景などを頻りに目前に描いていた。やがて一籠のいちごは余の病牀に置かれるのであった。このいちごの事がいつまでも忘れられぬので余は東京の寓居に帰って来て後、庭の垣根に西洋いち・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・「まあ、待ちたまえ。君のうただって悪口ともかぎらない。よろしい。はじめ。」 柏の木は足をぐらぐらしながらうたいました。「清作は、一等卒の服を着て 野原に行って、ぶどうをたくさんとってきた。 と斯うだ。だれかあとをつづけて・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・葉子の悲劇を解くためには、葉子が倉知をあのように愛し、自分がこれまで待っていた人が現われた、待ちに待っていた生活がやっと来た、と狂喜しながら、何故、妹や、或は古藤に向って、噂が嘘であるかのように、いわゆる潔白な自身というものを認めさせようと・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ さりながら一旦切腹と思定め候某、竊に時節を相待ちおり候ところ、御隠居松向寺殿は申に及ばず、その頃の御当主妙解院殿よりも出格の御引立を蒙り、寛永九年御国替の砌には、松向寺殿の御居城八代に相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御上京の御供にさえ・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・栖方の行為や仕事や、また、彼が狂人であろうと偽せものであろうと、そんなことより、栖方の頬に泛ぶ次の微笑を梶は待ちのぞむ気持で話をすすめた。何よりその微笑だけを見たかった。「陛下は君の名を何とお呼びになるの。」「中尉は、と仰言いました・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫