・・・…… 後年黄檗慧林の会下に、当時の病み耄けた僧形とよく似寄った老衲子がいた。これも順鶴と云う僧名のほかは、何も素性の知れない人物であった。 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・その時はこう云う彼の言も、単に一場の口頭語として、深く気にも止めませんでしたが、今になって思い合わすと、実はもうその言の中に傷しい後年の運命の影が、煙のように這いまわっていたのです。が、それは追々話が進むに従って、自然と御会得が参るでしょう・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・――後年「天保六歌仙」の中の、主な rol をつとめる事になった男である。「ふんまた煙管か。」 河内山は、一座の坊主を、尻眼にかけて、空嘯いた。「彫と云い、地金と云い、見事な物さ。銀の煙管さえ持たぬこちとらには見るも眼の毒……」・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を顕わしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。丁度鎖に繋がれた奴隷のもっと・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・……御威勢のほどは、後年地方長官会議の節に上京なされると、電話第何番と言うのが見得の旅館へ宿って、葱のおくびで、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。 また夢のようだけれども、今見れば麺麭屋になった、丁どその硝子窓のあるあたりへ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・と、後年夫の軽部に言ったら、若い軽部は顔をしかめた。 そんなお君が軽部と結婚したのは十八の時だった。軽部は大阪天王寺第×小学校の教員、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃など習っていたが、むろん浄瑠璃ぐるいの校長に取りいるため・・・ 織田作之助 「雨」
・・・この細君が後年息を引き取る時、亭主の坂田に「あんたも将棋指しなら、あんまり阿呆な将棋さしなはんなや」と言い残した。「よっしゃ、判った」と坂田は発奮して、関根名人を指込むくらいの将棋指しになり、大阪名人を自称したが、この名人自称問題がもつれて・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 何れにしても、彼等は尻尾を出さなければ必ず出世できるという幸運を約束されているという点で、一致していた。後年私は、新聞紙上で、軍人や官吏が栄転するたびに、大正何年組または昭和何年組の秀才で、その組のトップを切って栄進したという紹介記事・・・ 織田作之助 「髪」
・・・たとえば、竜ノ口の法難のとき、四条金吾が頸の座で、師に事あらば、自らも腹切らんとしたことを、肝に銘じて、後年になって追憶して、「返す/\も今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付て、泣き悲しみ給ひしは、如何なる世にも忘れ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・にどなられて育った。後年、網元の嘉平と利吉は、落ちぶれて死んじゃったが、その時は気持がよくって胸がすっとした。 鰯網が出ない時には、牛飼いをやった。又牛の草を苅りに出た。が、なか/\草は苅らずに、遊んだり角力を取ったりした。コロ/\と遊・・・ 黒島伝治 「自伝」
出典:青空文庫