・・・「御止しなさいましよ。御召しでもよごれるといけません。」 お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬を抱きとった。犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体を震わせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かな家に・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・本来ならばそんな事は、恐れ多い次第なのですが、御主人の仰せもありましたし、御給仕にはこの頃御召使いの、兎唇の童も居りましたから、御招伴に預った訳なのです。 御部屋は竹縁をめぐらせた、僧庵とも云いたい拵えです。縁先に垂れた簾の外には、前栽・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 翌日の午後六時、お君さんは怪しげな紫紺の御召のコオトの上にクリイム色の肩掛をして、いつもよりはそわそわと、もう夕暗に包まれた小川町の電車停留場へ行った。行くとすでに田中君は、例のごとく鍔広の黒い帽子を目深くかぶって、洋銀の握りのついた・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・人の悪い中洲の大将などは、鉄無地の羽織に、茶のきんとうしの御召揃いか何かですましている六金さんをつかまえて、「どうです、一枚脱いじゃあ。黒油が流れますぜ。」と、からかったものである。六金さんのほかにも、柳橋のが三人、代地の待合の女将が一人来・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・なんだいこんな家と、翌る日、安子は令嬢の真珠の指輪に羽二重の帯や御召のセルを持ち出して、浅草の折井をたずね、女中部屋の夢にまで見た折井の腕に抱かれた。その翌朝、警察の手が廻って錦町署に留置された。検事局へ廻されたが、未成年者だというので釈放・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・この時の女の顔は不思議な美しさに輝いて、涼しい眼の中に燃ゆるような光は自分の胸を射るかと思ったが、やがて縁側に手をついて、宜しくば風呂を御召しあそばせと云った時はもう平生のお房であった。女が去った後自分は立って雨戸を一枚あけて庭を見た。霧の・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・世なれた恥しげのうせた様子で銀杏返しにゆるく結って瀧縞御召に衿をかけたのを着て白博多をしめた様子は、その年に見る人はなく、その小さな国の女王としても又幾十人の子分をあごで動かす男達の姐御としても似合わしいものだった。 壁の地獄の絵の中の・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・旅 神様が御召しになる日までつづくんですよ。 もう少したつと貴方方も旅に御出かけにならなけりゃあならないんです。 野宿もしなければならず、川も渡らなければならない事をいつまでも覚えていらっしゃいね。 さあ、大変長いお話をして・・・ 宮本百合子 「旅人(一幕)」
出典:青空文庫