・・・「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も山内先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」 老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・其の陳腐にして興味なきことも亦よく予想せられるところであるが、これ却って未知の新しきものよりも老人の身には心易く心丈夫に思われ、覚えず知らず行を逐って読過せしめる所以ともなるのであろう。この間の消息は直にわたくしが身の上に移すことが出来る。・・・ 永井荷風 「百花園」
偉大なる過去を背景に持っている国民は勢いのある親分を控えた個人と同じ事で、何かに付けて心丈夫である。あるときはこの自覚のために驕慢の念を起して、当面の務を怠ったり未来の計を忘れて、落ち付いている割に意気地がなくなる恐れはあ・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・らないですましているのが至当であり、また本人もそのつもりで平気でいるのでしょうが、どうも処世上の便宜からそう無頓着でいにくくなる場合があるのと、一つは物数奇にせよ問題の要点だけは胸に畳み込んでおく方が心丈夫なので、とかく最後の判断のみを要求・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから。 それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理窟の立たない漫然としたものではないのです。い・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ 此頃は、幸健康も確らしくなって来て居るから又とない心丈夫な事である。 語学の必要をつくづく感じて居る。 しなければならない事に追われる様で、頭が散漫になりはしまいかと怖れて居る。・・・ 宮本百合子 「偶感」
・・・彼は出来上りかけている製作をなほ子に見せながら、「姉さんいて呉れると、どんなに心丈夫だか分らない――話んなりゃしないんだから、間抜けばっかりで」と云った。傍の台の上に、耕一が製図している家の油土の模型が出来ていた。彼は、「電球見・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・まして、朝来た巡査は、今夜は御宅の周囲を注意して置きますと云って呉れた事を思い出してからは、益々心丈夫にならない訳には行かなかったのである。 こうやって立って行く四時まではどんなに、のろくさと、変な心持であった事か。 私は漸う世界が・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・お松も実は余り心丈夫でもなかったが、半分は意地で強そうな返事をした。 二階では稀に一しきり強い風が吹き渡る時、その音が聞えるばかりであったが、下に降りて見ると、その間にも絶えず庭の木立の戦ぐ音や、どこかの開き戸の蝶番の弛んだのが、風にあ・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫