・・・古老の曰く、「心中の敵、最も恐るべし。」私の小説が、まだ下手くそで伸び切らぬのは、私の心中に、やっぱり濁ったものがあるからだ。 太宰治 「鬱屈禍」
・・・と称する部類に編入され、カフェーの内幕話や、心中実話の類と肩をならべ、そうしていわゆる「創作」と称する小説戯曲とは全然別の繩張り中に収容されているようである。これはもちろん、形式上の分類法からすれば当然のことであって、これに対して何人も異議・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一葉女史の『たけくらべ』、広津柳浪の『今戸心中』、泉鏡花の『註文帳』の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。 わたくしが弱冠の頃、初めて吉原の遊里を見に行ったのは明治三十年の春であった。『たけく・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・わぬ顔ですうと抜けて行く、間の抜さ加減は尋常一様にあらず、この時派出やかなるギグに乗って後ろから馳け来りたる一個の紳士、策を揚げざまに余が方を顧みて曰く大丈夫だ安心したまえ、殺しやしないのだからと、余心中ひそかに驚いて云う、して見ると時には・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・但し記者が此不和不順を始めとして、以下憤怒怨恨誹謗嫉妬等、あらん限りの悪事を書並べて婦人固有の敗徳としたるは、其婦人が仮令い之を外面に顕わさゞるも、心中深き処に何か不平を含み、時として之を言行に洩らすことありとて、其心事微妙の辺を推察したる・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・余幼童之時春色清和の日には必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候水には上下の船あり堤には往来の客ありその中には田舎娘の浪花に奉公してかしこく浪花の時勢粧に倣い髪かたちも妓家の風情をまなび○伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ故郷の兄弟を恥じい・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 第一に恋愛というものを、私は社会的階級的全生活の一部分として理解しているが、決して恋が命とは考えていません。心中する芝居を見るとカンシャクをおこす女であります。 又、恋愛はひどく、その人の程度=イデオロギー的にも、性格的にも=を示・・・ 宮本百合子 「ゴルフ・パンツははいていまい」
・・・しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・――梶は自分の心中に起って来たこの二つの真実のどちらに自分の本心があるものか、暫くじっと自分を見るのだった。ここにも排中律の詰めよって来る悩ましさがうすうすともみ起って心を刺して来るのだった。先日までは、まだ栖方の新武器が夢だと思っていた先・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 特に私は今、千数百年以前の我々の祖先の心境を心中に描きつつ、この問題を考察するのである。 まず私は、人間の心のあらゆる領域、すなわち科学、芸術、宗教、道徳その他医療や生活方法の便宜などへの関心等によって代表せられる人間の生のあ・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫