・・・ところがその半月ばかりが過ぎてから、私はまた偶然にもある予想外な事件に出合ったので、とうとう前約を果し旁、彼と差向いになる機会を利用して、直接彼に私の心労を打ち明けようと思い立ったのです。「と云うのはある日の事、私はやはり友人のドクトル・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・年よりもふけた、彼の顔は、この頃の心労で一層皺を増している。――林右衛門の企ては、彼も快くは思っていない。が、何と云っても相手は本家からの附人である。「縛り首は穏便でございますまい。武士らしく切腹でも申しつけまするならば、格別でございま・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・彼が近い身の辺にあった見せかけの生活から――甲斐も無い反抗と心労とから――その他あらゆるものから遁れて来た自分の身を考えた。もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることは無いか。そのために、彼は他にもあった教師の口を断り、すこし土でも掘って見よ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ けれども、誰が心労を忘れることが出来ましょう? 夜も昼も、スバーの両親の心は彼女の為に痛んでいるのでした。 わけても、母親は彼女を、まるで自分の不具のように思って見ました。母にとって、娘と云うものは、息子よりずっと自分に親しい一部・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・地平も、そのころ、おのれを仕合せとは思わず、何かと心労多かったことであったようだが、それより、三年たって、今日、精も根も使いはたして、洋服の中に腐りかけた泥がいっぱいだぶだぶたまって、ああ、夕立よ、ざっと降れ、銀座のまんなかであろうと、二重・・・ 太宰治 「喝采」
・・・毎日、毎日、尾沼栄蔵のサロンに、稽古に出かけて、ごほんごほん変なせきが出て、ゆたかな頬が、細くなるほど、心労つづけた。 初日が、せまった。三木は、こっそり尾沼栄蔵のもとへ、さちよの様子を聞きに行った。帰って来てからさちよに、君がうまいん・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・主、答へて言ふ「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により思ひ煩ひて心労す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり。」 私は、ただ読ませただけで、なんの説明も附加しなかっ・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・或は戸外の業務は内事に比して心労大なり、其成跡も又大なりなど言わんかなれども、夫の病に罹りたるとき妻が看病する其心配苦労は果して大ならざるか、妊娠十箇月の苦しみを経て出産の上、夏の日冬の夜、眠食の時をも得ずして子を育てたる其心労は果して大な・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ けだし意味深遠なる著書は読者の縁もまた遠くして、発兌の売買上に損益相償うを得ず、これを流行近浅の雑書に比すれば、著作の心労は幾倍にして、所得の利益は正しくその割合に少なし。大著述の世に出でざるも偶然に非ざるなり。いずれも皆、学問上には・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・その棄るところのものは、形体に属する財物か、または財にひとしき時間、心労にして、その報として得るものには、我が情を慰むるの愉快あり。すなわち形体の安楽を売りて精神の愉快を買うものなり。人生の発達、そのまったきを得て、形体の安楽にかねて精神の・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
出典:青空文庫