・・・ 彼が茶の間から出て行くと、米噛みに即効紙を貼ったお絹は、両袖に胸を抱いたまま、忍び足にこちらへはいって来た。そうして洋一の立った跡へ、薄ら寒そうにちゃんと坐った。「どうだえ?」「やっぱり薬が通らなくってね。――でも今度の看護婦・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そこで牧野は相手の後へ、忍び足にそっと近よって見た。するとお蓮は嬉しそうに、何度もこう云う独り語を呟いてたと云うじゃないか?――『森になったんだねえ。とうとう東京も森になったんだねえ。』……… 十七「それだけな・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇が立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢れて来る。お・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・母は二人ともよく寝たもんだというような事を、母らしい愛情に満ちた言葉でいって、何か衣裳らしいものを大椅子の上にそっくり置くと、忍び足に寝台に近よってしげしげと二人の寝姿を見守った。そして夜着をかけ添えて軽く二つ三つその上をたたいてから静かに・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 門番が見つけたら、またひと災難であろうと、お姫さまは心配をなされましたが、門番はこのときまで、まだいい心地に居眠りをしていましたので、乞食のふうをした若い女が、自分の前を忍び足で通り過ぎたのをまったく知らなかったのであります。 お・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・度はまずくても何でもずんずん画いていると、ゴソッ、ガサッという音がだんだん近づいて来るようで気になってならない、その音がまたすこぶる妙なので、ちょうど僕が一心に画いているのをつけこんで後ろから何者か、忍び足に僕をねらうように思われる。さアそ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 下駄の音は、門をはいってから、忍び足をしているのか、低くなっていた。彼がじいっと耳を澄ますと、納屋で蓆や空俵を置き換えている気配がした。まもなく、お里が喉頭に溜った痰を切るために「ウン」と云って、それから、小便をしているのが聞えて来た・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・彼女は敷居の近くにその菓子を置いて、忍び足で弟の側へ寄った。「姉さん、障子をしめて置いたら、そんな犬なんか入って来ますまいに」と熊吉は言った。「ところが、お前、どんな隙間からでも入って来る奴だ。何時の間にか忍び込んで来るような奴だ。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 私が母の病室から、そっとすべり出たとき、よそに嫁いでいる私のすぐの姉も、忍び足でついて出て来て、「よく来たねえ。」低く低くそう言う。 私は、てもなく、嗚咽してしまうであろう。 この姉だけは、私を恐れず、私の泣きやむのを廊下・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ この恐ろしい敵は、簔虫の難攻不落と頼む外郭の壁上を忍び足ではい歩くに相違ない。そしてわずかな弱点を捜しあてて、そこに鋭い毒牙を働かせ始める。壁がやがて破れたと思うと、もう簔虫のわき腹に一滴の毒液が注射されるのであろう。 人間ならば・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
出典:青空文庫