・・・雨の日の黄昏は知らぬまに忍び足で軒に迫ってはや灯ともしごろのわびしい時刻になる。家の内はだんだんにぎやかになる。はしゃいだ笑声などが頭に響いてわびしさを増すばかりである。 姉上に、少し心持ちが悪いからと、言いにくかったのをやっと言って早・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・松が忍び足のように鳴った。国分寺の鐘が陰にこもって聞こえてくるようになった。 こういったふうな状態は、彼をやや神経衰弱に陥れ、睡眠を妨げる結果に導いた。 彼とベッドを並べて寝る深谷は、その問題についてはいつも口を緘していた。彼にはま・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 頬かぶりで、出刃を手拭いで包んだ男が、頭の中を忍び足で通り過ぎた。 私は大いそぎで、まだカーテンが閉って居る寝室の戸を、ガタガタ叩きながら、「お母様! お母様! 早くお起なすって頂戴。と云うと、もうさっきから起きて・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・丘を下っていくものが半数で、栖方と親しい後の半数の残った者の夕食となったが、忍び足の憲兵はまだ垣の外を廻っていた。酒が出て座がくつろぎかかったころ、栖方は梶に、「この人はいつかお話した伊豆さんです。僕の一番お世話になっている人です。」・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫