・・・ しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。見えないどころか唇には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。「お前さんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」「嘘をつ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ それがおよそ十分あまりも続いてから、祖母は静に孫娘を抱き起すと、怖がるのを頻りになだめなだめ、自分の隣に坐らせました。そうして今度はお栄にもわかるように、この黒檀の麻利耶観音へ、こんな願をかけ始めました。「童貞聖麻利耶様、私が天に・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・男 莫迦な奴だ。怖がることはない。もっと此方へ来るがいい。A 己は待っている。己は怖がるような臆病者ではない。男 お前は己の顔をみたがっていたな。もう夜もあけるだろう。よく己の顔を見るがいい。A その顔がお前か? 己はお前の・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・ しかしかれこれ一月ばかりすると、あいつの赤帽を怖がるのも、大分下火になって来た。「姉さん。何とか云う鏡花の小説に、猫のような顔をした赤帽が出るのがあったでしょう。私が妙な目に遇ったのは、あれを読んでいたせいかも知れないわね。」――千枝・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・それには、縁では可恐がるだろう。……で、もとの飛石の上へ伏せ直した。 母鳥は直ぐに来て飛びついた。もう先刻から庭樹の間を、けたたましく鳴きながら、あっちへ飛び、こっちへ飛び、飛騒いでいたのであるから。 障子を開けたままで覗いているの・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・失礼な起しましょうと口々に騒ぐを制して、朝餉も別間において認め、お前さん方が何も恐がる程の事はないのだから、大勢側に附いて看病をしておやんなさいと、暮々も申し残して後髪を引かれながら。 その日、糸魚川から汽船に乗って、直江津に着きました・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・もう一軒近所に、たいへんに犬を怖がる子供のある家がありました。ほかの子供らは、みな犬といっしょになって遊んでいましたのに、その子供だけは、どういうものか臆病者で、犬を見ると怖がっていたのです。そして、ボンが尾を振りながら、なつかしそうにその・・・ 小川未明 「少年の日の悲哀」
・・・およそ自分の運命の末を恐がるその恐れほど惨痛のものがあろうか。しかもかれには言うに言われぬ無念がまだ折り折り古い打傷のようにかれの髄を悩ますかと思うとたまらなくなってくる。かれの友のある者は参議になった、ある者は神に祭られた。今の時代の人々・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・疵を怖がる眼には疵ばかり見えて玉は見えにくい。審査者に十分の見識がないと、そういうものの価値の見当はつけにくいものである。そういうものは消極主義の審査官の安全第一という立場から云えば保留した方が無事である。西洋の学者がそれについて何とかいう・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・人間弱味がなければ滅多に恐がるものでない。幸徳ら瞑すべし。政府が君らを締め殺したその前後の遽てざまに、政府の、否、君らがいわゆる権力階級の鼎の軽重は分明に暴露されてしもうた。 こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫