・・・あの人なんぞ何人来たって、私はちっとも怖くないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」 老女は不審そうに瞬きをした。「もし私の気のせいだったら、私はこのまま気違になるかも知れないわね。」「奥様はまあ、御冗談ばっかり。」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・お栄はそれを見ると同時に、急にこおろぎの鳴く声さえしない真夜中の土蔵が怖くなって、思わず祖母の膝へ縋りついたまま、しくしく泣き出してしまいました。が、祖母はいつもと違って、お栄の泣くのにも頓着せず、その麻利耶観音の御宮の前に坐りながら、恭し・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・推量して下さいまし、愛想尽しと思うがままよ、鬼だか蛇だか知らない男と一つ処……せめて、神仏の前で輝いた、あの、光一ツ暗に無うては恐怖くて死んでしまうのですもの。もし、気になったら、貴方ばかり目をお瞑りなさいまし。――と自分は水晶のような黒目・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・「ですがね、あの写真は変に目が怖く写っていますから……」「そんなことはありゃしませんよ。けれど、ただね、ちとどうも若過ぎやしないかって……」「ええ、私もそれを言わないことじゃなかったのですよ、あまりあれじゃはで作りで、どう見ても・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ と言い言いしていたが、悪魔とはどんなものであるかは良くは判らないままに、何となくうなずけた――それ位、ヴァイオリンが嫌いで怖くもあった。 げんにその日も――丁度その日は生国魂神社の夏祭で、表通りをお渡御が通るらしく、枕太鼓の音や獅・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・「君、こうしていて怖くない……?」 小沢はそうきいてみた。すると、娘は、「怖くないわ、あたし怒らないわ」 と言った。 小沢は暫らく口も利けなかった。 その夜のことは小沢にとって思いもかけぬことばかしであったが、しかし・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・毎晩ヘンな夢ばかし見てね、K君のことやおふくろのことや、……俺は少し怖くなった、とにかく早くここを逃げだしたい。僕も後から国へ帰るか、それとも西の方へ放浪にでも出かけるか、どっちにしても先きにFを国へ帰しておきたいから……」「いやそうい・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・屋根の端の方へは怖くて近寄れもせなかった。その男は汚ない褌など露わして平気でずぶずぶと凹む軒端へつくばっては、新しい茅を差していた。 彼は屋根の棟に腰かけて、ほかほかと暖かい日光を浴びながら、健康に育った子供の時分のことを想いだして、不・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 自分の出した札が偽ものだったと見破られた時のこういう話をきくと、栗島は、なんだか自分で、知らぬまに、贋造紙幣を造っていたような、変な気持に襲われた。怖くて恐ろしい気がした。人間は、罪を犯そうとする意志がなくても、知らぬ間に、自分の意識・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と、その眼が急に怖く光ってきた。そして血に染まった病衣をじっと見つめた。「何だ、仕様がないじゃないか! 早や洗濯したての病衣を汚しくさって!」「あゝ、たまらん! あゝ、たまらん! おゝい! おゝい!」 呻きはつゞいて出てきた。 ・・・ 黒島伝治 「氷河」
出典:青空文庫