・・・しかし余り無造作に解決出来る場合だけは、――保吉は未だにはっきりと一思案を装った粟野さんの偽善的態度を覚えている。粟野さんは保吉の教科書を前に、火の消えたパイプを啣えたまま、いつもちょっと沈吟した。それからあたかも卒然と天上の黙示でも下った・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・彼は、ここまで思案をめぐらした時に、始めて、明るみへ出たような心もちがした。そうして、それと同時に今までに覚えなかったある悲しみが、おのずからその心もちを曇らせようとするのが、感じられた。「皆御家のためじゃ。」――そう云う彼の決心の中には、・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・そしてそれがますます彼を引込み思案の、何事にも興味を感ぜぬらしく見える男にしてしまったのだ。 今夜は何事も言わないほうがいい、そうしまいに彼は思い定めた。自分では気づかないでいるにしても、実際はかなり疲れているに違いない父の肉体のことも・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 十五「起きようと寝ようと勝手次第、お飯を食べるなら、冷飯があるから茶漬にしてやらっせえ、水を一手桶汲んであら、可いか、そしてまあ緩々と思案をするだ。 思案をするじゃが、短気な方へ向くめえよ、後生だから一番方・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・の亀裂に紙を貼った、笠の煤けた洋燈の下に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場に立ちもせず、袖に継のあたった、黒のごろの半襟の破れた、千草色の半纏の片手を懐に、膝を立てて、それへ頬杖ついて、面長な思案顔を重そうに支えて黙然。 ちょっ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・今が思案の定め時だ。ここで覚悟をきめてしまわねば、またどんな事になろうも知れない。省さんの心も大抵知れてる、深田にいないところで省さんの心も大抵知れてる。おとよはひとりでにっこり笑って、きっぱり自分だけの料簡を定めて省作に手紙を送ったのであ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 二六 その後、四、五十日間は、学校へ行って不愉快な教授をなすほか、どこへも出ず、机に向って、思案と創作とに努めた。 愉快な問題にも、不愉快な疑問にも、僕は僕そッくりがひッたり当て填る気がして、天上の果てから地の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 母親は、思案顔をして、子供らを見守りながら、「昔から、花を食べてはいけないといわれています。あれを食べると、体に変わりができるということです。食べるなというものは、なんでも食べないほうがいいのです。」といいました。「あんなにき・・・ 小川未明 「赤い魚と子供」
・・・と考えても、いい思案の浮かぶはずもなかったのです。 いっそ死んでしまおうかしらんと考えながら、彼は、下を向いてとぼとぼと歩いてきました。いろいろな人たちが、その道の上をば歩いていましたけれど、少年の目には、その人たちに心をとめてみる余裕・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・と媼さんは何か思案に晦れる。莨を填めては吸い填めては吸い、しまいにゴホゴホ咽せ返って苦しんだが、やッと落ち着いたところで、「お光さん、一体今度のお話の……金之助さんとかいうのでしたね? その方はどこに今おいででございますね?」「え、それ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫