・・・たとえばごく甘口の行き方をすれば、弦の切れて巻き上がった三味線をちょっと映した次に、上野の森のこずえのおぼろ月でも出しそれに夜がらすの声でも入れておいて、もう一ぺん妹とその情人の停車場へ急ぐ自動車を出すとかなんとか方法はないものかと思う。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・ 断定的に帰宅を促した電文が、それから間もなく辰之助の家からお絹の家へ届いて、道太はにわかに出立を急ぐことになった。 支度をしに二階へあがると、お絹もついてきて、荷造りをしてくれた。「こんなものはバスケットがいいんでしょう」お絹・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・に忍ぶの恋草や、誰れに摘めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、聞く身につらきいもがりは、同じ待つ間の置炬燵、川風寒き子窓、急ぐ足音ききつけて、かけた蒲団の格子外、もしやそれかとのぞいて見れば、河岸の夕日にしよんぼりと、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・傾きやすき冬日の庭に塒を急ぐ小禽の声を聞きつつ梔子の実を摘み、寒夜孤燈の下に凍ゆる手先を焙りながら破れた土鍋にこれを煮る時のいいがたき情趣は、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を執る時の心に比して遥に清絶であろう。一は全く無心の間事である。一・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・な挙動あるにおいては七生まで祟るかも知れない、 忘月忘日 人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもないと、今日はズーズーしく構えて、バタシー公園へと急ぐ、公園はすこぶる閑静だが、その手前三・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・だから、彼とても特別に急ぐような、見っともない事はしない。だが、「少し悠くりしすぎる」と思わずにはいられなかった。「おい。もう、半分燃えてるぞ!」 と、小林はすぐ後ろから、秋山へ喚いた。 が、秋山は、云わば、彼の痛い所を覗き込ん・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・おい、おい、何をそんなに急ぐのだ」「何をッて」 西宮は平田の腕を取ッて、「まア何でもいい。用があるから……。まア、少し落ちついて行くさ」と、再び室の中に押し込んで、自分はお梅とともに廊下の欄干にもたれて、中庭を見下している。 研・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・急げば急ぐほど右へまがるよ、尤もそれでサイクルホールになるんだよ。さあ、みんながつづいたらしいんだ。僕はもうまるで、汽車よりも早くなっていた。下に富士川の白い帯を見てかけて行った。けれども間もなく、僕はずっと高いところにのぼって、しずかに歩・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・一太がゆっくり歩けば籠も静かにした。一太が急ぐと籠もいそぐ。一太が駈けでもしようものなら! 籠はフットボールのようにぽんぽん跳ねて一太にぶつかった。おかしい。面白い。一太は気のむくとおり一人で、駈けたり、ゆっくり歩いたりして往来を行った。・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・一つの机の上を綺麗に空虚にして置いて、その上へその折々の急ぐ為事を持って行く。そしてその急ぐ為事が片付くと、すぐに今一つの机の上に載せてある物をそのあとへ持ち出す。この載せてある物はいつも多い。堆く積んである。それは緩急によって畳ねて、比較・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫