・・・「直之の怨むのも不思議はない。では早速実検しよう。」 家康は大蝋燭の光の中にこうきっぱり言葉を下した。 夜ふけの二条の城の居間に直之の首を実検するのは昼間よりも反ってものものしかった。家康は茶色の羽織を着、下括りの袴をつけたまま・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・「では秋山図がないにしても、憾むところはないではありませんか?」 うんおうの両大家は、掌を拊って一笑した。 芥川竜之介 「秋山図」
・・・「ピストル強盗、清水定吉、御用だ!」――彼はそう叫ぶが早いか、いきなり盲人へ躍りかかった。盲人は咄嗟に身構えをした。と思うと眼がぱっちりあいた。「憾むらくは眼が小さ過ぎる。」――中佐は微笑を浮べながら、内心大人気ない批評を下した。 舞台・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりであ・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 笠井が逸早く仁右衛門を見付けてこういうと、仁右衛門の妻は恐れるように怨むように訴えるように夫を見返って、黙ったまま泣き出した。仁右衛門はすぐ赤坊の所に行って見た。章魚のような大きな頭だけが彼れの赤坊らしい唯一つのものだった。たった半日・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・三人はクララの立っている美しい芝生より一段低い沼地がかった黒土の上に単調にずらっとならんで立っていた――父は脅かすように、母は歎くように、男は怨むように。戦の街を幾度もくぐったらしい、日に焼けて男性的なオッタヴィアナの顔は、飽く事なき功名心・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・仕立物の賃仕事に追われていたことが悲しいまでにわかり、思いがけなく豹一は涙を落したが、なぜかその目のふちの黝さを見て、安二郎を恨む気持が出た。安二郎はもう五十になっていたが、醜く肥満して、ぎらぎら油ぎっていた。相変らず、蓄財に余念がなかった・・・ 織田作之助 「雨」
・・・私は大変に恨むからいい。 はて恐いな。お前に恨まれたらば眠くなって来た。と善平はそのまま目を塞ぐ。あれお休みなさってはいやですよ。私は淋しくっていけませんよ。と光代は進み寄って揺り動かす。それなら謝罪ったか。と細く目を開けば、私は謝罪る・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・叔母はわれを引き止めてまたもや数々の言葉もて貴嬢を恨み、この恨み永久にやまじと言い放ちて泣きぬ、されどいずこにかなお貴嬢を愛ずる心ありて恨めど怒り得ぬさまの苦しげなる、見るに忍びざりき。叔母恨むというとも貴嬢怒るに及ばじ、恨む心は女の心にし・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
出典:青空文庫