・・・そうして球技場の眩しい日照の下に、人知れず悩む思いを秘めた白衣のヒロインの姿が描出されるのである。 つまらない事ではあるが、拘留された俘虜達が脱走を企てて地下に隧道を掘っている場面がある、あの掘り出した多量な土を人目にふれずに一体どこへ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・私にはそれが自負の言葉だとはどうしても思われなくて、かえってくすぐったさに悩む余りの愚痴のようにも聞きなされる。これはあまりの曲解かもしれない。しかしそういう解釈も可能ではある。 二 科学上の学説、ことに一人の生・・・ 寺田寅彦 「相対性原理側面観」
・・・高く釣った蚊屋の中にしょんぼり坐っているのは年とった主婦で、乱れた髪に鉢巻をして重い病苦に悩むらしい。亭主はその傍に坐って背でも撫でているけはいである。蚊屋の裾には黒猫が顔を洗っている。 やもりと荒物屋には何の縁もないが、何物かを呪うよ・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・鳶はひとしきり時雨に悩むがやがて風収まって羽づくろいする。その姿を哀れと見るのは、すなわち日本人の日常生活のあわれを一羽の鳥に投影してしばらくそれを客観する、そこに始めて俳諧が生まれるのである。旅には渡渉する川が横たわり、住には小獣の迫害が・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・われよりの願いと人に知られで宮づかえする手だてもがなとおもい悩むほどに、この国をしばしの宿にして、われらを路傍の岩木などのように見もすべきおん身が、心の底にゆるぎなき誠をつつみたもうと知りて、かねてわが身いとおしみたもうファブリイス夫人への・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・ たまらぬ夢 ある小説に、妻が他の男と夢の中でけしからぬ悦び事をしているにちがいないと思って悩む男のことが書いてあった。男はそれを、「たまらぬことだ。」と云っていた。 なるほど、これはたまらぬことだ。手のつけよ・・・ 横光利一 「夢もろもろ」
・・・さすがの美人が憂に沈でる有様、白そうびが露に悩むとでもいいそうな風情を殿がフト御覧になってからは、優に妙なお容姿に深く思いを寄られて、子爵の御名望にも代られぬ御執心と見えて、行つ戻りつして躊躇っていらっしゃるうちに遂々奥方にと御所望なさった・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ 私は正直に悩む人に対しては同胞らしい愛を感じます。現世の濁った空気の中に何の不満もなさそうに栄えている凡庸人に対しては、烈しい憎悪を感じます。安価な楽天主義は人生を毒する。魂の饑餓と欲求とは聖い光を下界に取りおろさないではやまない。人・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫