・・・案ずるに、かれはこの数行の文章をかれ自身の履歴書の下書として書きはじめ、一、二行を書いているうちに、はや、かれの生涯の悪癖、含羞の火煙が、浅間山のそれのように突如、天をも焦がさむ勢にて噴出し、ために、「なあんてね」の韜晦の一語がひょいと顔を・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・噂に依れば、このごろ又々、借銭の悪癖萌え出で、一面識なき名士などにまで、借銭の御申込、しかも犬の如き哀訴嘆願、おまけに断絶を食い、てんとして恥じず、借銭どこが悪い、お約束の如くに他日返却すれば、向うさまへも、ごめいわくなし、こちらも一命たす・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・僕たちの、この悪癖を綺麗に抜くのは至難である。君たちに頼む。君たちさえ、清潔な明るい習慣を作ってくれたら、僕たちの暗黒の虫も、遠からずそれに従うだろう。僕たちに負けてはならぬ。打ち勝て。以上、一般論は終りだ。どうも僕は、こんなわかり切ったよ・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・火事を見ると、どうしたわけか、こんなに全身がたがた震えるのが、私の幼少のころからの悪癖である。歯の根も合わぬ、というのは、まさしく的確の実感であった。 とんと肩をたたかれた。振りむくと、うしろに、幸吉兄妹が微笑して立っている。「あ、・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・私には幼少の頃から浪費の悪癖があり、ものを惜しむという感覚は、普通の人に較べてやや鈍いように思っている。けれども、そのウイスキイは、謂わば私の秘蔵のものであったのである。昔なら三流品でも、しかし、いまではたしかに一流品に違いなかったのである・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・その一つには、私が小さい時から人なかへ出ることを億劫がり、としとってからもその悪癖が直るどころか、いっそう顕著になって、どうしても出席しなければならぬ会合にも、何かと事を構えて愚図愚図しぶって欠席し、人には義理を欠くことの多く、ついには傲慢・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・私を信じて、そうして、私も鬼でない以上、今夜のお前の寛大のためにだけでも、悪癖よさなければならぬ。以上、一言一句あやまちなし。この起誓の文章やぶらず、保存して置いて下さい。十年、二十年のちには、わが家の、否、日本の文学史にとっての、宝となり・・・ 太宰治 「創生記」
・・・私は、阿佐ヶ谷の外科病院にいた時から、いまわしい悪癖に馴染んでいた。麻痺剤の使用である。はじめは医者も私の患部の苦痛を鎮める為に、朝夕ガアゼの詰めかえの時にそれを使用したのであったが、やがて私は、その薬品に拠らなければ眠れなくなった。私は不・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・わが家の悪癖、かならず亭主が早死して、一時は、曾祖母、祖母、母、叔母、と四人の後家さんそろって居ました。わけても叔母は、二人の亭主を失った。 終唱 そうして、このごろ 芸術、もともと賑やかな、華美の祭礼。プウシュキン・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・十三、わが家に旧き道具の一つも無きは、われに売却の悪癖あるが故なり。蔵書の売却の如きは最も頻繁なり。少しでも佳き値に売りたく、そのねばる事、われながら浅まし。物慾皆無にして、諸道具への愛着の念を断ち切り涼しく過し居れる人と、形はやや相似・・・ 太宰治 「花吹雪」
出典:青空文庫