・・・大人から云えば、ただ見ていて事件の進行と筋の運び方さえ腑に落ちればそれですむのですけれども、悲しいかな子供にはそれほど一部始終を呑み込む頭がない。と云ってただ茫然と幕に映る人物の影がしきりに活動するのを眺めている訳にも行かない。どうかしてこ・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい、飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵で・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・やッぱりそうだッた、私しゃ欺されたのだと思うと、悲しい中にまた悲しくなッて涙が止らなくなッて来る。西宮さんがそんな虚言を言う人ではないと思い返すと、小万と二人で自分をいろいろ慰めてくれて、小万と姉妹の約束をして、小万が西宮の妻君になると自分・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・丁度花を持って遊ぶ子が、遊び倦てその花を打捨てしまうように、貴方はわたしを捨てておしまいなさいました。悲しい事にはわたくしは、その時になって貴方の心を繋ぐようなものを持っていませんでした。貴方の一番終いに下すったあの恐ろしいお手紙が届いた時・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ある時は惘然として悲しいともなく苦しいともなく、我にもあらで脱殻のようになって居る。固よりいろいろに苦んで居たに違いないけれど、しかしその苦痛の中に前非を後悔するという苦痛のない事はたしかだ。感情的お七に理窟的後悔が起る理由がない。火を付け・・・ 正岡子規 「恋」
・・・童子は母さまの魚を砕く間、じっとその横顔を見ていられましたが、俄かに胸が変な工合に迫ってきて気の毒なような悲しいような何とも堪らなくなりました。くるっと立って鉄砲玉のように外へ走って出られました。そしてまっ白な雲の一杯に充ちた空に向って、大・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 楽しいような、悲しいような心持が、先刻座敷を見ていた時から陽子の胸にあった。「あの家案外よさそうでよかった。でも、御飯きっとひどいわ、家へいらっしゃいよ、ね」 大理石の卓子の上に肱をついて、献立を書いた茶色の紙を挾んである金具・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 永遠に渇している目には、四本の箸の悲しい競争を見る程の余裕がなかった。 女は最初自分の箸を割って、盃洗の中の猪口を挟んで男に遣った。箸はそのまま膳の縁に寄せ掛けてある。永遠に渇している目には、またこの箸を顧みる程の余裕がない。・・・ 森鴎外 「牛鍋」
・・・ところがそこに気の附いた時にはもうあとの祭でした。悲しいことは悲しいのですが、わたしだって男一匹だ。ここに来たからには、せっかくの御注意ですが、やっぱりこのまま置いてお貰い申しましょう。」ツァウォツキイはこう云って、身を反らして、傲慢な面附・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 思えば憎いようで、可哀そうなようで、また悲しいようで、くやしいようで、今日はまた母が昨夜の忍藻になり、鳥の声も忍藻の声で誰の顔も忍藻の顔だ。忍藻の部屋へ入ッて見れば忍藻の身の香がするようだし、忍藻の手匣へ眼をとめれば忍藻が側にいるよう・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫