・・・ しかし、喜美子はそんな綽名をべつだん悲しみもせず、いかにも達磨さんめいたくりくりした眼で、ケラケラと笑っていた。「達磨は面壁九年やけど、私は三年の辛抱で済むのや。」 三年経てば、妹の道子は東京の女子専門学校を卒業する、乾いた雑・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・泣かない世代には泣かない悲しみの文学がありそうなものだが、しかし少数の泣かない文学も目下のところ泣く文学には勝てない。泣かない世代、泣けない私たちはもしかしたら、泣く時代、泣ける彼等より不幸なのかも知れない。 してみれば、よしんば二十歳・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・その全き悲しみのために、この結末の妥当であるかどうかということさえ、私にとっては問題ではなくなってしまう。しかし、はたして、爪を抜かれた猫はどうなるのだろう。眼を抜かれても、髭を抜かれても猫は生きているにちがいない。しかし、柔らかい蹠の、鞘・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ それは人間のそうしたよろこびや悲しみを絶したある厳粛な感情であった。彼が感じるだろうと思っていた「もののあわれ」というような気持を超した、ある意力のある無常感であった。彼は古代の希臘の風習を心のなかに思い出していた。死者を納れる石棺の・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・二郎が深き悲しみは貴嬢がしきりに言い立てたもう理由のいかんによらで、貴嬢が心にたたえたまいし愛の泉の涸れし事実の故のみ。この事実は人知れず天が下にて行なわれし厳かなる事実なり。 いかなる言葉もてもこれを言い消すことあたわず、大空の星の隕・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ げに横浜までの五十分は貴嬢がためにも二郎がためにもこの上なき苦悩なりき、二郎には旧歓の哀しみ、貴嬢には現場の苦しみ、しかして二人等しく限りなきの恥に打たれたり。ただ貴嬢の恥は二郎に対する恥、二郎の恥は自己に対する恥、これぞ男と女の相違・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・そのとき自暴になったり、女性呪詛者になったり、悲しみにくず折れてしまってはならぬ。思いが深かっただけ傷は深く、軽い慰めの語はむしろ心なき業であるが、しかも忍び通さねばならないのだ。これを正しく忍び通した者は一生動かない精神的態度の純潤性と深・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・貧しい者の悲しみや、露骨なみにくい競いや、諂いをこれ事としている人間を見て大きくなった。慾のかたまりのような人間や、狡猾さが鼻頭にまでたゞよっているような人間や、尊大な威ばった人間がたくさんいるのである。 約十年間郷里を離れていて、一昨・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・そこでその四五日は雁坂の山を望んでは、ああとてもあの山は越えられぬと肚の中で悲しみかえっていたが、一度その意を起したので日数の立つ中にはだんだんと人の談話や何かが耳に止まるため、次第次第に雁坂を越えるについての知識を拾い得た。そうするとまた・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・に取って、悼ましく悲しきのみである、三魂、六魂一空に帰し、感覚も記憶も直ちに消滅し去るべき死者其人に取っては、何の悼みも悲みもあるべき筈はないのである、死者は何の感ずる所なく、知る所なく、喜びもなく、悲しみもなく、安眠・休歇に入って了うのに・・・ 幸徳秋水 「死生」
出典:青空文庫