・・・落話家の前座になって見たがやはり見込がないので、遂に按摩になったという経歴から、ちょっと踊もやる落話もする愛嬌者であった。 般若の留さんというのは背中一面に般若の文身をしている若い大工の職人で、大タブサに結った髷の月代をいつでも真青に剃・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ただ心持色が白くなったのと、年のせいか顔にどこか愛嬌がついたのが自分の予期と少し異なるだけで、他は昔のままのS禅師であった。「私ももう直五十二になります」 自分は老師のこの言葉を聞いた時、なるほど若く見えるはずだと合点が行った。実を・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・ それ故西洋諸国の出版業者が、著者に対する尊敬と読者に対する愛敬とからして、やや高尚なる文学書類を多くパンフレツトで出版するのは、さもあるべき筈のことではないか。この仕方で出版された書物は、その特種なる国民的趣味を代表する表紙の一色によ・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・ 西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌のある丸顔。結城紬の小袖に同じ羽織という打扮で、どことなく商人らしくも見える。 平田は私立学校の教員か、専門校の学生か、また小官員とも見れば見らるる風俗で、黒七子の三つ紋の羽織に、藍縞の節・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・左れば男子は活溌にして身体強大なるが故に陽の部に入り、女子は静にして小弱なるが故に陰なりなど言う理窟もあらんかなれども、仮りに一説を作り、女子の顔の麗くして愛嬌溢るゝ許りなるは春の花の如くなるに反して、男子の武骨殺風景なるは秋水枯木に似たり・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その人相を見るに、これは夫婦ぐらしで豆屋を始めて居て夫婦とも非常な稼ぎ手ではあるが、上さんの方がかえって愛嬌が少いので、上さんはいつも豆の熬り役で、亭主の方が紙袋に盛り役を勤めて居る。もっともこの亭主は上さんよりも年は二つ三つ若くて、上さん・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・なあに却って御愛嬌ですよ。」「お早うございます。どうか一枚拝見。」 私はパンフレットを手にとりました。それは今ももっていますが斯う書いてあったのです。「◎偏狭非文明的なるビジテリアンを排す。マルサスの人口論は、今日定性的・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 女の子は、愛嬌がないときらわれる、意志がつよいと敬遠される、と、受け身にばかり育てられた日本の若い女性が、今日、どのような姿で、この古い日本の躾の欠陥を社会に示しているでしょうか。 世界の人が、日本の謎の一つとする「日本人の笑・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・お客に褒められ、友達の折合も好い、愛敬のあるお蝶が、この内のお上さんに気に入っているのは無理もない。 今一つ川桝でお蝶に非難を言うことの出来ないわけがある。それは外の女中がいろいろの口実を拵えて暇を貰うのに、お蝶は一晩も外泊をしないばか・・・ 森鴎外 「心中」
・・・父が患者に対して愛嬌をふりまくとか、患者を心服せしめるためにホラを吹くとか、そういう類の外交術をやっている場面はかつて見たことがないが、病気と聞いて即座に飛び出して行かない場合もかつてなかったと思う。田舎のことであるから、こういう生活はかな・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫